父のいない歌
乾木葉が父の記憶を削除したのは、三十四歳の春だった。
父は酒を飲むと怒鳴り、皿を投げ、木葉の腕に青い痣を残した。死んで七年たっても、玄関で鍵の鳴る音を聞くだけで息が止まった。医師は、人物単位の削除なら恐怖反応も薄くなると言った。
施術後、木葉は古い家族写真を見ても、母の隣に立つ男を知らなかった。悪夢は消えた。夜中に目覚めることもなくなった。知らない男性とエレベーターに乗っても、出口を探さずに済んだ。
代わりに、ピアノが弾けなくなった。
五歳から習っていたはずなのに、鍵盤へ指を置くと、曲の途中に白い穴が開く。楽譜は読める。指も動く。だが、左手が旋律を支えるたび、誰かの低い声が一緒に歌っていた気配だけがして、次の音へ進めない。
母に尋ねると、父は酒を飲まない朝だけ、木葉へピアノを教えたのだという。暴力の記憶と一緒に、その時間も消えた。
「戻したい?」
母は怯えた顔で聞いた。
木葉は首を振った。優しい朝があったからといって、恐ろしい夜が許されるわけではない。けれど、恐ろしい人間から教わったものまで捨てなければ自由になれないのかと思うと、腹が立った。
木葉は毎日、止まる小節を弾いた。思い出そうとはしなかった。知らない指遣いを、自分で一音ずつ選び直した。父が使った和音を避け、左手の伴奏を崩し、沈黙だった部分へ高い音を置いた。
一年後、小さな演奏会で新曲を披露した。曲名は『父のいない歌』だった。
演奏の途中、木葉の左手が一瞬だけ、習った覚えのない美しい和音を鳴らした。客席の母が息を呑んだ。木葉も気づいたが、止まらなかった。その和音を次の音でほどき、自分の旋律へつないだ。
拍手の中で、木葉は初めて、父を思い出せないことを悲しいとは思わなかった。楽屋で母は何も言わず、木葉の左手だけを握った。
記憶を消しても、受け取ったものは身体のどこかに残る。
残ったものを誰のものにするかは、忘れたあとの自分が決めればよかった。