犬が見分けた歩幅
妻を亡くした会社員は、飼い犬の散歩を短くした。
朝は駅までの往復。
夜は家の周りを一周。
犬は角の古いベンチへ行きたがったが、
「時間がない」
とリードを引いた。
ある晩、玄関の空のフックへリードを二重に掛けると、自分と同じ姿の男が現れた。
「散歩お願い」と言えば、もう一人の自分が犬といつもの一周を歩き、玄関へ戻るまで役目を代わる。
本物は久しぶりに家で夕食を取った。
窓から見ると、代役は犬に引かれ、予定の道を外れていく。
気になり、少し離れて追った。
犬は古いベンチで止まった。
妻が散歩のたび座り、犬へ水を飲ませた場所だ。
もう一人の男は急かさず、隣へ座った。
近所の老人が話しかけた。
「最近、ご主人は来ないね」
代役は自分と同じ顔で、
「忙しくて」
と答えた。
「奥さんがいた頃は、ここで三人よく休んでた。犬だけは毎日、まだ三人分待ってる」
会社員は物陰で息を止めた。
犬が待っていたのは、亡くなった妻だけだと思っていた。
だからベンチへ行かせるのがつらかった。
けれど犬は座面の端を空けたあと、代役の膝へ鼻を置いた。
今いる男が腰を下ろすのを待っていたのだ。
帰り道、代役は公園で子どもの落とした手袋を拾い、郵便受けへ入れ、犬が草を嗅ぐたび足を止めた。
予定の一周には、会社員が削った小さな寄り道がいくつもあった。
玄関へ着くと、もう一人の自分は消えた。
犬は本物を見るなり、またリードをくわえた。
「今行っただろ」
言いながら、会社員は上着を着た。
二度目の散歩では、犬が本物か確かめるように何度も振り返った。
歩幅は代役より不揃いで、途中で仕事の通知も見た。
それでもベンチへ座り、妻の分だった場所へ手を置いた。
「待たせたな」
誰へ言ったのか、自分でも分からない。
犬は答えず、足元で丸くなった。
それから夜の散歩は長くなった。
忙しい日は短い道もある。
ただ、短くする日は犬へ先に言い、翌日はベンチまで行く。
空のフックへリードを二重に掛けても、代役はもう現れない。
犬が見分けたのは顔ではなく、一緒に立ち止まる歩幅だった。