犬が選んだ曲がり角
老犬は散歩のたび、川沿いの分かれ道で右へ行きたがった。
右は遠回りで、坂もある。私は仕事前の朝には左へ引いた。
十五年前、保護施設でも同じだった。忙しいから飼えないと一度は帰りかけ、振り返った犬が右の前脚を上げた。それで連れて帰った。
ある朝、分かれ道でリードを落とした。
犬は右へ進み、角を曲がった先だけが別の町になった。
そこには犬を飼わなかった私がいた。
上等な服で走り、腕には高価な時計。海外出張の予定を電話で話し、広いマンションへ帰った。
部屋は驚くほど静かで、床に毛一本ない。
羨ましい部分は、いくらでもあった。
犬の病院代に悩まず、旅行を諦めず、夜中に粗相を片づけることもない。向こうの私は、若く見えた。
けれど玄関には、紐の切れた古い靴が一足だけあった。
十五年前、保護施設へ行った日に履いていた靴だ。捨てられずにいるらしい。
棚には施設のパンフレットが挟まれ、犬の写真のところだけ、指で触れた跡が白く残っていた。
向こうの私が窓を開けた。
こちらの老犬を見つけると、息をのんだ。
犬は迷わず近づき、ガラス越しに鼻を寄せた。
「その子、どんな名前?」
声は聞こえないはずなのに、唇で分かった。
私は答え、犬の耳を撫でた。
向こうの私は笑い、それから少し泣いた。
老犬がくるりと背を向けたので、私は追った。
分かれ道へ戻ると、いつもの川沿いだった。リードは地面に落ちたまま、時計は一分も進んでいない。
私は仕事へ遅刻した。
上司へは犬が遠回りしたと正直に言った。
その夜、長く断っていた出張を同僚へ譲り、代わりに近場の案件を引き受けた。犬のためだけではない。自分が選んだ時間を、犠牲と呼び続けるのをやめたかった。
老犬はその冬、歩けなくなった。
私は抱いて右の道を進んだ。坂の上からは、川も町も、遠くのマンションも見えた。
犬を飼わなかった私が幸福でないとは思わない。
ただ、こちらの腕に残った重さは、失った自由よりずっと具体的だった。
曲がり角を選んだのは、あの日も今朝も、たぶん犬の方だった。
春、首輪だけを持って同じ道を歩いた。分かれ道でリードを落としてみたが、角の先はいつもの町だった。
代わりに、保護施設の散歩当番募集の紙が電柱に貼られていた。私は剥がれかけた端を押さえ、その場で電話した。
最初に任された犬は、左へ行きたがった。私は逆らわずついていった。知らない道の先にも、選ばなかった時間を埋めるのではなく、新しく抱える重さが待っていた。