甘さのない誕生日
小松和音の二十八歳の誕生日に、弟はプリンを一個だけ作った。
型から外すのに失敗し、皿の上で少し傾いている。弟は砂糖を入れ忘れたと、和音が一口食べる前に白状した。冷たいプリンは舌の上でなめらかに崩れたが、甘さはなかった。底のカラメルだけが苦く、ガラスの皿まで冷えていた。
「作り直す」
弟が立とうとしたので、和音は首を振った。
三か月前から、和音には甘さがほとんど分からない。新しい薬を飲み始めてから、味が遠くなった。医師には一時的な副作用かもしれないと言われたが、次の治療ではさらに強い薬を使う予定だ。
家族には、検査は順調だとしか話していない。母は誕生日の電話で、来年は元気になって旅行へ行こうと言った。弟も、治療を続ければ治ると信じている。和音自身も最初はそう信じ、治療予定を仕事の締切のように手帳へ並べた。終われば元の生活へ戻れると考え、体調の悪い日ほど明るい報告を送った。
和音は来週の診察で、治療を一度休みたいと伝えるつもりだった。治る可能性を捨てたいわけではない。ただ、吐き気で仕事を休み、味のしない食事へ笑顔で感想を言う日々に疲れた。誕生日なのに、来年まで生きるための選択だけを求められることにも疲れていた。その疲れを口にすれば、通院へ付き添った弟や、毎朝連絡をくれた母を裏切るようで黙っていた。
プリンをもう一口食べる。砂糖を忘れたせいなのか、自分の舌のせいなのか、弟には判別できない。だからこそ、今日は「おいしい」と嘘をつかずに済む。
和音は中央から三口食べ、縁を輪のように残した。弟は崩れた形を直そうとせず、向かいで待っている。
最後の一口をすくったところで、和音はスプーンを皿へ戻した。
「甘くないの、今日だけじゃない」
弟の顔が上がる。
和音は残した一口の隣へ、次回予約の紙を置いた。
「次、行くか迷ってる」
弟は慰めも説得もせず、プリンの皿を和音のほうへ少し戻した。全部食べなくても下げない、という置き方だった。
和音は最後の一口を残したまま、冷たい皿を両手で包んだ。弟は予約票の裏へ、診察室で聞きたいことを一つだけ書いた。〈休むと、何が変わる?〉。続けるよう説得する質問ではなかった。
甘さが戻る約束はない。治療を休むかどうかもまだ決めていない。それでも、味がしないと言える相手は一人増えた。残した一口は、来年の自分へ取っておくものではなく、今日これ以上食べなくていいという印になった。