留守番電話を替える日
小日向都季は、家を引き渡す午後五時までに、留守番電話の応答だけを替えることにした。
引っ越し業者はもう帰り、壁には電話台の四角い日焼けだけが残っている。固定電話は、父が亡くなってからも玄関脇の台に置かれている。誰もかけてこないのに、着信ランプだけがたまに点く。録音されている応答は、病気が見つかる前の父の声だった。
『ただいま電話に出ることができません。発信音のあとに――』
都季は停止を押した。家の中で聞くと、父が二階にいて、あとで降りてきそうだった。
不動産会社から、電話機は処分してよいと言われている。けれど、処分する前に応答を自分の声へ替えたかった。次の持ち主が誤って電源を入れたとき、知らない家族へ父が留守を告げるのは、何かが違う。
受話器を上げると、発信音はまだ生きている。番号を一つ押せば誰かにつながる状態が、空の家には不釣り合いだった。
説明書は見つからない。都季は本体の裏をのぞき、録音と書かれた小さなボタンを押した。電子音のあと、急に家じゅうが耳を澄ませた。
「お電話ありがとうございます」
声が硬い。やり直す。
二回目は、途中で咳が出た。三回目は住所を言いかけた。ここはもう自分の家ではなくなるのだと、録音のたびに知らされる。
都季は父の古い応答をもう一度だけ再生した。最後まで聞くと、定型文のあとに二秒ほど空白があり、遠くで母が「それでいいよ」と言っていた。父は小さく「短すぎないか」と返している。二人とも、残るとは思わず録った声だ。
都季は新規録音を押した。
「ただいま電話を取り外しています。メッセージは録音されません」
事務的で、誰の暮らしも想像させない文にした。最後に礼を言おうとして、やめる。発信音を待ち、停止ボタンを押す。
再生すると、自分の声の後ろで、空になった部屋の反響と、外を通る自転車のベルが聞こえた。父の録音より短く、母の声も入っていない。都季は保存を選び、電話線を壁から抜いた。赤い着信ランプが消え、液晶の時刻も一緒に暗くなった。