白いシャツの名前
夏服の名札を付け替えようとして、古い糸に気づいた。
白いシャツの内側に、姉の名前が縫いつけられていた跡がある。
家では「まだきれいだから」と渡されたお下がりだった。姉は二年前、この学校を辞めて働き始めた。理由を聞くと、家計のためだと母は言った。姉は「勉強が嫌いだっただけ」と笑った。
私はそのシャツを着るのが嫌だった。
教室で誰かに名前の跡を見つけられれば、姉の話を説明しなければならない。だから衣替え初日の朝、裁縫箱を持って早く登校した。
名札の糸をほどく。
最後の一目を引いたとき、布の裏から青い糸が出てきた。
小さく縫われた四文字。
『負けるな』
姉の字ではない。縫い目は不器用で、ところどころ曲がっている。
その日の放課後、姉の職場へ寄った。
シャツの裏を見せると、姉は一度だけ目を閉じた。
「担任が縫った」
退学届を出した日、最後に夏服を返そうとした。担任は受け取らず、被服室でその言葉を縫ったという。
「負けたみたいで嫌だったから、一度も着なかった」
姉は笑った。
「でも、あんたが着るなら、言葉だけは勝ち逃げだね」
私は翌日、そのシャツを裏返して友達へ見せた。
「姉の名前、消したの?」
「消した。けど、こっちは残す」
青い糸は表から見えない。誰にも説明しなくてもいい。けれど、胸のすぐ近くにある。
期末試験前、私は進路希望の紙に、県外の大学名を書いた。家から通える学校を勧められていたが、奨学金を調べ、先生へ相談した。
母は困った顔をし、姉は「行けるところまで行け」と言った。
夏の終わり、シャツを洗うたび、青い糸は少しずつ柔らかくなった。
名前の跡は薄くなっても、言葉は残った。
お下がりの制服は、姉の途中を私に着せるものではなかった。
姉が着られなかった季節の先へ、私が歩くための服だった。
卒業の日、私は青い糸の部分だけを切り取らず、シャツごと箱へしまった。いつか誰かへ渡すなら、名前ではなく、この見えない言葉を引き継ぎたかった。
夏は、その先まで続いていた。