白いシャツを洗わない
佐和の白いシャツは、第二ボタンだけがなくなっていた。
帰宅した彼女は上着を脱がず、洗濯機の前にしゃがんだ。鞠恵は食卓で請求書を整理していたが、肩口に残る赤い指の跡を見た。
「それ、どうしたの」
「取引先の人に引っかけられた。事故」
佐和はシャツを脱いで洗濯かごへ押し込んだ。営業職は信用が大事だと言い、面倒を大きくしないことを処世術にしている。フリーの写真家である鞠恵は、記録を残さないのは事実を捨てることだと思っている。
「洗う前に撮らせて」
「大げさにしたくない」
「洗ったら、糸も汚れも落ちる」
「落としたいの」
鞠恵は黙った。正しさで追い詰めれば、取引先の男と同じ側に立つ気がした。
佐和は以前、鞠恵が仕事の報酬を払わない依頼主を公開批判したとき、「次の仕事まで失う」と止めた。鞠恵はそれを臆病だと思ったし、佐和は鞠恵を無責任だと思った。今夜も二人は、その評価を撤回していない。
佐和が洗濯機のふたを開ける。鞠恵は椅子から立たず、机の上へ透明な保存袋と定規を置いた。何も言わず、カメラの電源だけを入れる。
水の流れる音はまだしない。
やがて佐和は、かごからシャツを取り出した。食卓へ広げ、なくなったボタンの穴を指で押さえる。
「顔は写さないで」
「写さない」
鞠恵は破れた糸、襟の汚れ、肩の跡を一枚ずつ撮った。佐和は日付を書いた紙を横へ置く。二人の考えは揃わない。鞠恵はすぐ会社へ報告するべきだと思い、佐和は明日の朝まで決めたくない。
撮影が終わると、鞠恵は裁縫箱を出した。似た白いボタンはあったが、佐和は首を振る。鞠恵はボタンを小袋へ入れ、袋の表に日付を書く。佐和は取引先の名刺を探し、その裏へ会った時刻を記した。
「直すのは、あとにする」
鞠恵はシャツを保存袋へ入れた。佐和が封を閉じ、冷蔵庫の上に置く。洗濯機の中には、ほかの衣類だけが残った。
「明日、会社まで来てとは言わない」
「言われなくても、駅までは行く」
「報告するか、まだわからないよ」
「それでも駅は同じ方向」
翌朝、二人は別々の白いシャツを着た。佐和は一番上までボタンを留め、鞠恵はカメラを鞄へ入れる。
玄関で靴を履くと、二人は保存袋を間に挟んで持ち上げた。