百メートルを歩く
陸上部の練習が雨で切り上げになったあと、簑島駿河は一人だけトラックへ戻った。
百メートルのスタート地点に、笘篠が立っていた。
春からずっと競ってきた短距離の相手だ。先週、笘篠は足首を痛め、記録会を欠場した。駿河は代わりに出て自己ベストを更新したが、ゴール後に一番見てほしかった相手は観客席にいなかった。
「何してる」
「百メートル」
「走るなって言われてるだろ」
「歩く」
笘篠は白線の内側へ足を置いた。
雨は細く、土のトラックへ黒い点を増やしている。駿河も隣のレーンへ並んだ。
「競争?」
「歩きで?」
「負けそう」
「簑島、歩幅でかいから」
「そっちが遅いだけ」
合図を出す人はいない。
二人は何となく同時に歩き始めた。
十メートル。靴が泥を吸う。
二十メートル。校舎の窓に、片づけをする部員の影が見える。
三十メートルで、笘篠が少し遅れた。
駿河は速度を落とさなかった。待てば同情になる気がした。先へ行けば、怪我人を置いていくようで嫌だった。
五十メートルの線で止まった。
「休憩」
「勝負じゃなかったの」
「前半終了」
笘篠が追いつく。
「記録会、何秒」
「掲示板見れば」
「本人から聞きたい」
「十一秒八」
「速いな」
「お前がいなかったから」
「関係ないだろ」
「ある。隣が静かだった」
雨音の中で言うと、負け惜しみにも告白にも聞こえた。駿河は前を向いた。
後半は、笘篠の歩幅に合わせた。
七十、八十、九十。
ゴールまで一メートルのところで、笘篠が立ち止まる。
「先、行って」
「何で」
「一回くらい、ちゃんと勝たせる」
「歩きで勝っても」
「走れるようになったら返す」
駿河は白線を越えた。
拍手もタイムもない。振り返ると、笘篠も一歩遅れてゴールした。
「差、〇・五秒くらい」
「測ってない」
「覚えとく」
「次は走る」
「次も俺が勝つ」
「それ、今言う?」
二人は泥のついた靴で校舎へ戻った。
駿河がその年の最速記録より鮮明に覚えているのは、十分近くかけた百メートルだった。
速さを競っていた相手と、初めて同じ景色を見ながら進んだ距離だった。