百円玉の体温

千景の部屋の洗濯機は、脱水の途中で止まった。

 表示には見たことのない記号が点滅し、蓋を開けると水を含んだ服が重く沈んでいた。説明書を探す気力はなく、ビニール袋へ全部移し、午前二時のコインランドリーへ運んだ。

 店内は乾いていた。

 蛍光灯の白さ。乾燥機の熱。空調の低い音。外の雨だけが、ガラスの向こうで別の季節のように冷たく降っている。

 千景は両替機へ千円札を入れた。

 硬貨が落ちる。

 ちゃり、ちゃり、ちゃり。

 受け皿へ手を入れると、百円玉が十枚ではなく十一枚あった。前の人の取り忘れだろう。十枚は冷たかったが、一枚だけわずかに温かい。ついさっきまで誰かの手にあった温度だった。

 店内を見回す。誰もいない。防犯ミラーには、濡れた髪の自分と、背後で回る空の乾燥機だけが映っている。

 入口の傘立てには透明な傘が一本あり、その先から水が規則正しく落ちている。けれど持ち主は、隣の自販機へ行ったのか、車で待っているのか分からなかった。

 千景は温かい百円玉を機械へ入れた。

 かち、と内部へ消える。続けて自分の硬貨を入れる。濡れた服が回り始め、丸い窓の下を水が白く流れた。

 さっきまで冷たい塊だった服が、少しずつほぐれていく。

 入口のベルが鳴り、透明な傘の持ち主らしい人が入ってきた。紙コップを片手に、奥の乾燥機を開ける。千景とは目が合わなかった。洗濯物を抱え、傘を取り、また雨へ出ていった。

 温かい硬貨のことを尋ねる時間はなかったし、その人のものだったかも分からない。紙コップから立った湯気だけが、扉の閉じたあともしばらくガラスに薄く残った。

 乾燥を終えるころ、雨は細くなっていた。

 千景は残った百円玉を一枚、しばらく握った。掌の中で冷たい金属がゆっくり温まる。

 帰り際、それを両替機の受け皿へ置いた。

 忘れ物ではなく、誰かのものでもない。ただ、次に手を入れた人が一瞬だけ首をかしげる程度の温度だ。

 洗濯機は壊れたままだった。部屋へ戻れば修理の手配もしなくてはならない。

 それでも今夜は、冷えた服を抱えて帰らずに済んだ。千景は空の袋をたたみ、雨の弱くなった道を歩いた。