監査日の推し色ネイル

久住彩音は、監査法人で「隙がない」と言われていた。髪は低い位置で結び、爪は短く、資料の付箋まで白か灰色。取引先の数字に踏み込む仕事では、余計な印象を持たれないことが鎧になる。新人のころ、明るい色の手帳を持っていただけで『感覚で仕事をしそう』と言われて以来、彩音は好みをすべて証拠の残らない場所へ移した。

ただし左手の薬指だけ、爪の裏に深い緑を塗っていた。女性アイドルグループ〈MIRA〉の瑛茉の色。表からは見えず、指先を返したときだけ自分に見える、小さな応援だった。繁忙期に終電が続いた冬、瑛茉が配信で『誰にも見えない頑張りも、自分だけは見ていて』と言った。その夜から、彩音は爪の裏へ色を置いた。鎧の内側に縫いつけた、小さな旗のつもりだった。

重要な監査の最終日、段ボールを持ち上げた拍子に爪先が欠けた。裏の緑が表側へ筋のように現れる。

先方の経理責任者、堂前修吾が目を留めた。

「久住さん、意外と派手なんですね。そういう趣味があるようには見えない」

会議室に乾いた笑いが起きた。彩音は指を握り込んだ。上司に謝り、化粧室で落としてこようとしたとき、同行していた主査の野々村冴が資料を閉じた。

「ネイルではなく、未計上の返品引当金について話しています」

冴の声で、笑いは止まった。

「久住さん、続きを」

彩音は立ち上がったまま、自分の手を見た。守ってもらったからこそ、再び隠すのは違う気がした。

「これは推しているアイドルのメンバーカラーです。勤務中に眺めて気持ちを整えています。監査手続の品質とは関係ありません」

そう言って資料をめくり、返品データの欠落を示した。数字は数字としてそこにあり、緑色は何も邪魔しなかった。

監査報告が終わるころ、欠けた爪はさらに広がっていた。彩音は帰社前に除光液を買うつもりだったが、店の前を通り過ぎた。

翌朝、薬指の緑を表まで塗り直す。派手すぎない細い一本だった。鏡の前で指先を返さなくても、瑛茉の色が見えた。