砂は主人の名を残さない
砂漠騎士ナジュムの胸には、羅針盤の呪印が刻まれていた。
真鍮の針が指す方角へ進み、そこにいる者を護衛する。針の持ち主が奴隷商であっても、盗賊であっても。
隊商主サハルが競売で買ったのは、騎士ではなく、その羅針盤だった。
捕らわれた旅人を救うため、ほかに方法がなかったのだ。
「おめでとう。今日から砂漠最強の剣はあんたのものだ」
奴隷商が笑う。
鎖を外されたナジュムは、羅針盤を持つサハルの後ろへ無言で立った。胸の針も同じ向きを指している。
「命じれば、あの商人を斬れるのか」
サハルが尋ねる。
「はい」
「私自身を斬れと命じたら?」
「実行後、心臓が停止します」
「ひどい道具ね」
羅針盤の裏には所有者名を書き換える小窓がある。そこへサハルの名を入れれば、呪印は安定する。
彼女は小窓を開いた。
中には細かな砂が詰まっていた。
歴代の所有者名を削った粉だ。名前は消えても、支配だけが積み重なっている。
サハルは羅針盤を岩の上へ置き、水袋から最後の一杯を注いだ。
「水を捨てる気か!」同行者が叫ぶ。
「砂に書いた名は、水で消える」
濡れた砂が流れ出し、古い名をすべてさらっていく。
最後に真鍮の針が空回りし、ぱきりと折れた。
ナジュムの胸から羅針盤の輪郭が消える。
彼はよろめき、初めて自分で一歩下がった。
サハルは西を指した。
「三里先に自由都市がある。水は道標の壺に残してきた。私たちは東へ行く。好きな方へ」
ナジュムは西へ歩き出した。
夕日が彼の背をのみ込むまで、サハルは振り返らなかった。
翌朝、隊商は砂嵐に道を失った。
誰も責めず、サハルが星を待とうとしたとき、前方の丘に一本の槍が立った。
槍のそばに、ナジュムがいる。
西へ向かったはずの足跡を、自分で東へ曲げて戻ってきたのだ。
「自由都市へ行かなくていいの?」
「行けると分かった。それで十分です」
彼はサハルへ水袋を差し出す。
「案内役として雇ってください。給金は相場の倍。値切るなら西へ行きます」
サハルが笑って手を打つと、砂の上に二本の足跡が並んだ。どちらの先にも、主人の名はなかった。