祖母の前だけ婚約者

設楽原眞白は、同僚の生沼航季へ手を合わせた。

「祖母の前でだけ、婚約者のふりをして」

「なぜ」

「入院中で、私の結婚だけが心残りだって」

「重い役だな」

「三十分。会話は私に合わせて」

病室へ入ると、祖母は航季を上から下まで見た。

「仕事は」

「眞白さんと同じ会社です」

「給料は」

「おばあちゃん」と眞白。

「結婚は気持ちだけでは続かん」

航季はうなずく。

「おっしゃるとおりです」

「貯金は」

「言わなくていいから」

祖母はますます本気になった。

「式場は」

「まだです」

「子どもは」

「まだです」

「そこは順番が合っとる」

眞白が小声で言う。

「全部“まだ”で逃げないで」

「設定資料をもらってない」

祖母は二人の馴れ初めを聞いた。

航季が答える。

「会社の給湯室で」

眞白が驚く。

「初対面は研修でしょう」

「給湯室の方が恋愛らしい」

「勝手に脚本を足さないで」

祖母が笑う。

「喧嘩できるなら安心だ」

そこへ看護師が祝いの花を持ってきた。

「ご婚約おめでとうございます」

眞白は祖母を見る。

「もう話したの?」

「病棟全体へ」

航季が青ざめる。

「会社へ伝わったら」

祖母はスマートフォンを掲げる。

「会社の代表番号にも電話した」

「なぜ!」

「身元確認じゃ」

ほどなく上司から航季へメッセージが届いた。

〈婚約おめでとう。社内報の取材、来週でいい?〉

眞白は祖母へ耳打ちした。

「実は、今日だけのふりなの」

祖母は驚かず、航季を見た。

「知っとる」

「え?」

「この子、病室へ入ってから一度もお前の手を握らん。本物なら緊張した時ほど触る」

航季が言う。

「観察が鋭すぎませんか」

「八十七年、人を見とる」

眞白は肩を落とす。

「じゃあ、どうして会社へ?」

祖母は笑った。

「二人とも互いを見る顔だけは本物だったから、外堀を埋めた」

退院祝いの日、航季はもう一度祖母の前へ座った。

祖母は二人の手を重ね、満足そうにうなずいた。

「ほら、今度は自分から握った」

航季が苦笑する。

「最初から全部、面接だったんですね」

「婚約者のふりを頼まれた時点からな」

今度は、ふりではない婚約者としてだった。