祝福杯のひびは内側から

建国祝賀の夜会で、聖女リディアが祝福杯を掲げた瞬間、透明な杯が破裂した。

 硝子片が白い頬をかすめ、会場に悲鳴が走る。台座には、杯を献上したグラスド家の印が刻まれていた。

「フロレンシア様が、呪いのひびを仕込んだのです」

 リディアが血の滲む頬を押さえると、王子バスティアンは即座に婚約者へ背を向けた。

「王家の儀式を利用して聖女を殺そうとした。君との婚約を破棄する」

 フロレンシアは工房で何百回も指を切ってきた。王家の杯は父と三年かけて完成させ、光の角度まで一枚ずつ磨いたものだ。頬の小傷より、その職人の名を殺人の道具にされたことのほうが痛かった。

「主片を拾わないでください。工房主に見せます」

 赤銅色の髪を結んだエレノラが進み出て、床に落ちた最大の破片を一枚だけ布で包んだ。

 王室用の硝子には《火入れ印》があり、最後に熱を加えた者の魔力紋を、ひびの奥へ保存する。エレノラが破片を燭台へかざすと、内側の傷が金色に浮かんだ。

 杯へ熱針を当てた指。聖女の指輪。そして、リディア自身の魔力紋。

「外から呪われたひびではありません。飲む直前、内側から育てたひびです」

 エレノラは破片を伏せた。工房の技術は、一枚の硝子で十分に語った。

 リディアは頬の血を拭うことも忘れ、バスティアンは苦い笑みを浮かべた。床の破片は、燭台の光を受けて冷たく彼らを映していた。

「儀式の重圧で、聖女が混乱したのだ。フロレンシア、婚約破棄は撤回する。王家の杯を作る名誉も、そのまま君に与えよう」

「名誉は、疑われなかった職人へ与えるものです」

 フロレンシアは腰の工房鍵を外し、王子から贈られた宝石だけを床へ置いた。

「私の技術を信じず、家印だけで罪を決めた方の杯は、もう作れません」

 エレノラは煤けた掌を差し出す。

「海都に、光を曲げる新工房を建てる。共同親方の席なら、血統ではなく腕で座れるよ」

 フロレンシアは元婚約者に背を向け、その傷だらけの手を取った。