糸切りばさみの名前
羽瀬久遠が児童養護施設「ひばり園」を訪れたのは、求人票へ書く在籍証明を受け取るためだった。
玄関で帰るつもりが、元寮母の苑子に呼び止められた。
「手、空いてる?」
「十分だけ」
「十分で終わるところまで」
作業室には、寄付された敷布団が積まれていた。一枚だけ側地が裂け、中綿が白く飛び出している。今夜、新しく来る十四歳の子が使うらしい。
久遠は太い針へ糸を通した。苑子は裁縫箱から、久遠の名前が薄く残る糸切りばさみを出した。子どもごとに道具を分けていた名残で、持ち主がいなくなっても捨てられなかったらしい。苑子が裂け目を寄せ、久遠が縫う。施設を出て八年、二人で何かをするのは初めてだった。
十八の春、苑子は久遠の荷物を段ボールへ詰め、「次の子が来るから」と部屋を空けさせた。制度の決まりだと分かっていた。それでも、ベッドが足りないから追い出されたように感じた。苑子が駅まで送ろうとした車にも乗らなかった。
「縫い目、細かすぎ」と苑子が言う。
「ほどけない方がいい」
「きつく縫うと布が破れるよ」
「出ていく前に言えよ、そういうこと」
針が止まった。
苑子は裂け目を押さえたまま、「あのときは、何を言っても引き止めることになると思った」と答えた。
「引き止めればよかっただろ」
「今なら、そう思う」
久遠は糸を強く引き、布を少し皺にした。苑子は直さなかった。
縫い終えた布団を二人で三階へ運ぶ。かつて久遠が使った部屋には、別の机と別のカーテンがある。空いているベッドへ布団を敷き、苑子は枕元に新品の歯ブラシを置いた。
「在籍証明、封筒に入れてある」
「ありがとう」
久遠は受け取ったが、帰らなかった。作業室へ戻り、積まれた布団を一枚ずつ確かめる。角のほつれたものが、あと二枚あった。
「十分、過ぎたよ」と苑子が言う。
「ここまでやる。針、置く場所変わってなくて助かった」
苑子は返事をせず、糸をもう一本切った。
夕方、玄関に小さな靴が増えた。久遠はその横へ自分の安全靴を揃えた。外向きにはせず、つま先を階段の方へ向けたままにした。