終点まで立つ人

終電には、座席表より一席多い椅子が載っている。

その椅子へ座れるのは、今夜、仕事にも家にも帰らないと決めた者だけである。座る前に車掌へ、どちらを捨てるか告げる。捨てた方へは始発まで行けない。椅子の乗客は終点まで降車禁止で、到着後、捨てた場所へ入るための物を一つ座面へ残す。

雲林院は、ドア脇に置かれた木の椅子を見ながら立っていた。

会社ではシステム障害が続いている。退勤した直後、部長から戻れと連絡が来た。同時に、同棲している恋人から《今夜、話さないなら荷物をまとめる》と届いた。車内灯が揺れるたび、木の椅子の影だけが一駅先の床へ伸びた。革張りの会社用座席より、家の食卓椅子に似ていた。

五年間、似た夜を何度もやり過ごした。仕事へ戻れば、家の話は朝に延ばせる。家へ帰れば、明日の会議で席がなくなるかもしれない。どちらにも行くつもりで、どちらにも間に合わない時間だけが増えた。

恋人が買った二脚の食卓椅子のうち、雲林院が座る方にはいつも会社の鞄が置かれていた。夕食を一緒に取れない日が続き、最後には彼女が床へ座って食べた。雲林院は翌朝、そのことに気づいた。

木の椅子は空いていた。座面には路線図が彫られ、会社と自宅の駅だけが黒く塗りつぶされている。乗客は誰も座らず、つり革につかまっている。規則を知っているからだ。

雲林院は車掌を呼んだ。

「会社を捨てます」

言葉にすると、椅子の座面が少し沈んだ。彼は座った。部長からの着信が三度続き、画面を伏せた。恋人には《終点から帰る》とだけ送った。既読はつかなかった。

列車は彼の最寄り駅を通過した。窓から、二人で選んだカーテンの明かりが一瞬見えた。終点へ着くころ、車内には雲林院と車掌しかいなかった。

ホームで椅子が降ろされた。

「入るための物を」と車掌が言った。

雲林院は首から社員証を外した。休日にも持ち歩き、顔写真の角が擦れている。それを座面へ置くと、椅子はホームの端へ自分で移動した。

雲林院はタクシー乗り場へ走った。

翌朝の始発が来ても、木の椅子は残っていた。社員証には改札鋏の穴が一つ開き、会社のロゴだけがきれいに抜け落ちていた。