自分の名は自分で書く
花房初音は、司会台の水杯へ自分の名前を書いた。
署名用に置かれていた油性ペンで、透明な硝子へ「花房初音」と大きく記す。三人の参加者の前には、それぞれ名札つきの銀杯が並んでいた。
《自分の名が記された杯を飲み、生き残れば勝者となる》
「ふざけるな」
隣の猟師が初音の腕を掴もうとした。「お前の杯はそこだ」
彼が指した銀杯には、最初から印刷された「花房初音」の札が留められている。だが規則は、自分の名が一つの杯にだけ記されていなければならないとは言っていない。
初音は司会台の透明な水を飲み干した。
甘くも苦くもない。
『花房初音、条件達成』
猟師と塾講師が凍りつく。二人は慌てて自分の銀杯を調べたが、ペンは初音の手にある。奪おうとした瞬間、残り時間が十秒を切る警告音が鳴った。
塾講師は覚悟を決め、自分の札の前の杯を飲む。猟師も続いた。
倒れたのは猟師だった。
『通過者、花房初音、室生岳』
司会者が透明な杯を取り返しながら、声を荒らげる。
「それは参加者用ではない!」
「ルールに参加者用とは書いてない。自分の名が記された杯。それだけ」
初音はペンを机へ置いた。司会台の水杯だけ、洗浄済みを示す紙帯が巻かれていた。毒を扱う係員が口をつけるものではない。その安全まで、名前を書く前に確認していた。
「最初から名入りの杯を用意しなかったのは、予算を惜しんだからじゃない。私たちに『名札の前の杯が自分のもの』と思わせるため。所有を演出したかったのよ」
塾講師の岳が、倒れた猟師から目を逸らす。
壁の判定履歴には、印刷札と硝子面の筆跡が同じ「有効な名称」として表示されていた。主催者は解法を隠しながら、後で「公平だった」と主張できる証拠まで残している。
「じゃあ、このペンもわざと?」
「署名させて、死の同意を取るために置いたんでしょう。でも文字を書く道具は、同意以外にも使える」
扉が開き、透明な杯だけが照明の下に取り残された。
初音は自分の名が残る透明な杯を振り返った。
「名前を決める権利まで、主催者に渡した覚えはないわ」