舞台裏の幻猫と一本の魚針

王立劇場に幻猫が棲みついた。

役者の顔を盗み、客席を狂わせる猫型魔獣だと噂され、千秋楽の夜、討伐隊が舞台を囲んだ。幕の上には紫の猫影が十も二十も走り回っている。

衣装係の澄乃には、それが分身ではなく、照明に映った一匹の影だと分かった。

本体は奈落の隅で縮こまり、口元を前足で掻いている。華やかな幻を出すたび、喉から苦しげな音が漏れた。

「顔を盗んでるんじゃない。助けを呼ぶ形が分からないんだ」

澄乃が梯子を降りると、討伐隊長は「魅了されるぞ」と止めた。彼女は針山と糸切り鋏だけを持ち、暗がりへ進む。

幻猫の姿が、厳しい座長、泣く子ども、亡くなった母へ次々変わった。澄乃の足も止まりかけた。

だが、どの顔にも同じ場所に銀色の光がある。下顎の裏だ。

「そこが痛いのね」

座って視線を下げ、手のひらを見せる。幻猫は母の顔で「帰りなさい」と言った。澄乃は首を振った。

「母さんは、困ってる猫を置いて帰れとは言わない」

幻が崩れ、小さく震える猫の本体が現れた。顎の毛に、餌へ仕込まれた魚針が食い込み、糸が舌へ絡んでいる。

澄乃は衣装のほつれを直すときのように、糸を一本ずつ切った。針の返しを布で包み、逆側へ押し出す。幻猫は痛みに全身を硬くしたが、彼女の手を噛まなかった。

針が抜けると、舞台を埋めていた偽の顔が消えた。澄乃は出血を止めるため、主演衣装の予備リボンを顎へ巻いた。高価な絹だと座長が叫んだが、幻猫は鏡に映る紫の結び目を見て、少しだけ胸を張った。

代わりに幻猫は、今夜の主演女優より優雅に舞台中央へ歩く。額に仮面形の紋章が浮かび、澄乃の指ぬきへ同じ印を刻んだ。

誰かが一度手を打ち、それが波のように広がって、客席から拍手が起こる。討伐隊まで剣を下ろした。

幻猫は拍手を一身に浴びたあと、舞台袖の澄乃へ戻り、彼女の膝へ顎を置いた。紫の毛はベルベットより細く、撫でるたび色が変わる。抱えきれないほどの重さが腿に預けられ、その内側の温もりだけは、どんな幻よりも本物だった。