船長日誌から消えた一行
海賊船《黒鮫号》を拿捕した時、船長ナギが最初に没収したのは金貨でも大砲でもなかった。
船長日誌だった。
最終頁には一行だけ、血色の文字がある。
——豹獣人ザフルは、日誌を所有する船長に永久服従する。
当のザフルは舵輪へ鎖でつながれていた。嵐の中でも眠らず航路を読み、船が沈めば首輪が彼だけを海底へ引く仕組みだ。
「新しい船長、命令を」
ザフルは感情のない声で言った。
「港へ向かえ」
「方角は」
「君が決めろ」
豹の耳がわずかに動く。
だが拿捕された海賊頭が甲板で笑った。
「無駄だ。そいつは命令なしじゃ舵も切れねえ。日誌へお前の署名をすれば完璧な奴隷になるぞ」
ナギは羽根ペンを取った。
ザフルの瞳が暗くなる。所有者が替わる瞬間を、何度も見てきた目だった。
ナギは署名欄ではなく、頁の綴じ糸を切った。
一行だけが記された紙を引き抜き、嵐のランタンへ差し入れる。
「船長日誌を燃やす馬鹿がいるか!」
「航海の記録は書き直せる。人の人生は、船の備品欄へ書くな」
血色の文字が炎に巻かれた。頁の端に残っていた歴代船長の署名も、黒い灰へ変わっていく。
ザフルの首輪から鎖が抜け、甲板へ重く落ちる。海賊頭は命令を叫んだが、もう豹の耳にはただの騒音だった。
「小舟を降ろす。東へ二刻で島がある」
ナギは言った。
「そこから先は好きにしろ」
ザフルは小舟へ移り、荒波の向こうへ消えた。
《黒鮫号》は直後、暗礁帯へ入った。奪った海図は偽物。乗組員が青ざめる中、霧の向こうから一艘の小舟が戻ってきた。
「右へ三度。次の波で左舵いっぱい」
ザフルが甲板へ飛び移り、自分で鎖を蹴りどけて舵輪を握る。命じられたからではない。船は彼の選んだ航路を滑り、岩礁の間を抜けた。
「島へ行かなくてよかったのか」
ナギが問う。
「行った。自由な陸だと確かめた」
「なら、なぜ戻った」
ザフルは焼け残った日誌の次の頁を開き、初めて自分の手で一行を書いた。
——本日より、航海士ザフル。乗船理由、自分でこの船長を選んだため。
船長の署名欄ではなく、並んだ二人の名の間を、朝の潮風が通り抜けた。