花火のあと、静かな鈴
牧瀬紗良の隣家には、耳の聞こえない白猫・音羽がいる。
音羽は呼び声には反応しないが、床を軽く踏むと振動で振り向く。飼い主の夫婦は、灯りを二度点滅させるのを「おいで」の合図にしていた。
夏祭りの夜、玄関へ出入りした隙に音羽がいなくなった。
花火の音は聞こえないはずだった。それでも地面の震えや人混みの動きに驚いたのだろう。首輪の鈴も、猫自身には聞こえない。
紗良は町内の人へ、ただ名前を呼ばないでほしいと伝えた。
「追いかけず、しゃがんで、懐中電灯を二回」
祭り帰りの家族、屋台を片づける店主、交番の巡査。皆が合図を覚え、静かな捜索が始まった。
賑やかだった通りから太鼓が消え、人々は足音まで小さくして路地を覗いた。
音羽が好きなのは、夜のクリーニング店だった。
大型乾燥機の振動を、店の外から感じるのが日課だったという。けれど店は祭りで早仕舞いし、灯りが消えている。
紗良たちが裏へ回ると、排気口の下に白い毛が一本ついていた。
懐中電灯を二度点ける。
物置の奥で、二つの目が光った。
音羽は掃除道具の間へ入り込み、周囲の振動に怯えて動けずにいた。飼い主が地面へ手をつき、指先で一定のリズムを叩く。
とん、とん。いつも食事を知らせる合図だ。
猫は耳ではなく前足でそれを受け取り、ゆっくり出てきた。
抱き上げられた音羽は、誰にも聞こえない鈴を胸元で揺らした。
捜していた人々は大声を上げず、手を振ったり、胸の前で拍手の形を作ったりした。音羽は目を丸くし、それから飼い主の肩へ顔を埋めた。
祭りの屋台に残っていた冷やし飴が、紙コップで配られた。
生姜の甘い香りが夜気へ立ち、皆はクリーニング店の前で声を落として飲んだ。普段は挨拶だけの隣人同士が、聞こえない猫のために覚えた合図を、何度も確かめ合う。
「二回で、おいで」
「ゆっくり近づく」
それは猫だけでなく、人へ近づくときにも使えそうだった。
翌朝、紗良が窓を開けると、隣の窓辺に音羽がいた。
紗良は室内の灯りを二度点滅させる。
白猫はしばらく見つめ、ゆっくり瞬きを返した。
昨夜の花火の火薬臭は消え、町には洗いたての布と、生姜の残り香だけが漂っていた。