花瓶は窓辺へ
「花瓶は窓辺へ置きますね」
小さなネネの部屋を任された侍女ポメラは、朝ごとに同じ確認をした。
庭から白い花を三本摘み、水を替え、勉強机の消し屑を払う。ネネが授業を嫌がって机の下へ隠れても、叱らずに椅子だけ元へ戻す。子ども扱いしない彼女を、ネネは屋敷で一番信頼していた。折れた色鉛筆も、翌朝には黙って削り直されている。
その日、白い花の間に黒い蕾があった。
庭には咲かない花だ。
蕾がゆっくり開き、中心から翅のない小人が這い出した。花殺しの妖精《黒蜜》。息を吸った子どもの心臓へ根を張り、眠ったまま殺す魔族だった。
ネネは机の下からそれを見ていた。
声を出そうとしても、甘い香りで舌が痺れる。
ポメラは花切り鋏を手に取った。
ぱちん。
音は一度だけ。
黒い蕾が消えた。
小人も、伸びかけた蔓も、部屋を満たした殺気もない。白い花が三本、朝日を受けて揺れているだけだった。
けれど机の下は低く、花瓶の底まで見えた。
ポメラの鋏は蕾ではなく、床へ落ちた黒蜜の影を切っていた。影を失った妖精は声もなく縮み、一粒の黒い種になる。彼女はそれを二本の指で摘み、花瓶の水へ落とした。水が一瞬だけ紫に染まる。
《影摘み》。
魔王の庭へ一人で入り、毒花の軍勢を一晩で枯らした伝説の暗殺者。絵本では大鎌を持つ恐ろしい老婆だったのに、ポメラが握るのは小さな花鋏だった。
彼女は濁った水を鉢植えの土へ注ぐ。土の浄化虫が黒い種を食べ、満足そうに一度鳴いた。花瓶を洗い、新しい水を満たし、床へ落ちた花粉まで濡れ布で拭き取る。
「ポメラ」
ネネが机の下から呼ぶと、侍女はしゃがんだ。
「怖い夢でもご覧に?」
「今の黒いの、切ったでしょう」
「傷んだ蕾なら処分しました」
にこりと笑う顔は、いつもの優しい侍女だった。
ネネはそれ以上聞かなかった。代わりに机の下から這い出し、ポメラのスカートをそっと掴む。彼女の指からは、もう毒の甘い香りではなく石鹸の匂いしかしない。
ポメラは白い花三本を整え、敵のいなくなった窓のそばへ運んだ。
「花瓶は窓辺へ置きますね」