落ちたクロワッサン

開店直後のベーカリーで、甕星隆仁は焼きたてのクロワッサンが並ぶ盆へ肘をぶつけた。

六個が床へ落ちる。

甕星は謝るどころか、若い店員を指さした。

「通路が狭いからだ。危険な店だな。落ちた分はもちろん、残りも全部タダで包め。迷惑料だ」

店員が、接触したのは本人だと伝えると、甕星はトングをカウンターへ投げた。

「客に責任を押しつけるのか。店長を出せ。土下座しないなら保健所へ不衛生だと通報するぞ」

そのとき、奥の扉から、白いコックコートを着た巨漢が出てきた。絹笠谷壮嘉。腕は丸太のようで、頬に火傷跡がある。

甕星は半歩下がった。

「何だよ。用心棒か」

「向かいのパン屋の店主です。今朝はオーブンを借りに来ました」

絹笠谷は床を見た。

「あなた、店員が背を向けたとき、わざと盆へ近づきましたね。私も見ました」

甕星は、同業者の証言など信用できないと笑った。

店長が天井カメラを再生する。甕星は列を追い越し、スマートフォンを構えて「商品を落としたら何個もらえるか試す」と小声で配信していた。肘を二度、狙うように動かした場面も映っている。

「冗談だ。落ちたパンくらい原価は安いだろ」

絹笠谷の表情が変わった。

「原価だけがパンの値段だと思うな。夜中から生地を折った人の時間も、売れるはずだった六人分の朝食も入っている」

甕星はなおも保健所への通報を持ち出した。

絹笠谷は名刺を渡した。地域の食品衛生協会会長でもあり、廃棄手順と清掃記録が適切なら問題はないと説明する。虚偽の申告をすれば、その配信映像とともに経緯を伝えるという。

店長は甕星へ、落とした六個と割れたトングの弁償、今後の入店禁止を通知した。甕星が拒むと、通報を受けた警察官が到着した。

若い店員は新しい盆を出し、最後尾まで待った客へ一個ずつ焼き直し券を渡した。

甕星の配信が運営規約違反で停止され、六個分の請求書へ受領印が押された瞬間、無料で買い占めるつもりだった男だけが、一口も食べられず店の外へ出された。