蓮根の穴の数

戸倉純弥は、離婚届を出した日の夜にもこの店へ来た。あれから一年半、今夜が最後になる。

 元の家から二駅離れた町へ引っ越すだけだ。それでも、帰宅途中に寄れる距離ではなくなる。店主は「遠くなるな」とだけ言い、蓮根のはさみ焼きを網へ載せた。

 純弥のスマートフォンには、元妻からのメッセージが残っていた。

 明日の学芸会、後ろの席なら空いてる。来られるなら連絡して。

 小学二年の息子が木の役をする。台詞は一つだけらしい。純弥は先月から日程を知っていたが、元妻の両親も来ると聞いて、仕事だと返すつもりだった。離婚の理由を誰か一人のせいにはできない。それだけに、元妻の家族と並ぶ場所がなかった。

 今夜の客は純弥だけだった。網の上で挟んだ鶏肉の脂がじゅっと鳴り、生姜と醤油の匂いが立つ。焼き上がった蓮根の穴から白い湯気が抜け、皿の上で薄く揺れた。

「穴、いくつでしたっけ」

「数えたことないな」

 店主は笑わずに答えた。

 純弥は一枚を噛んだ。蓮根はしゃきりと折れ、中の鶏肉は柔らかい。離れた食感が、噛むあいだだけ一つになった。

「冷めますよ」

「穴から?」

「どこからでも」

 純弥はメッセージへ「行きます。後ろで見ます」と返した。明日の朝、花束は買わない。息子が好きな消しゴムを一つだけ持っていく。終わったあと一緒に帰れるとも、話せるとも限らない。元妻の両親にどんな顔をされるかも分からない。

 それでも、仕事という嘘で空席を作るのはやめる。

息子は電話で、木の台詞を一度だけ聞かせてくれた。「ここにいるよ」という短い一言だった。純弥は上手だと褒めたあと、仕事で行けないかもしれないと言ってしまった。学芸会へ行っても、父親の席が戻るわけではない。写真を撮る役目も、帰りに手をつなぐ権利もないかもしれない。それでも、客席の後ろから一度頷くことならできる。

 最後の一枚は少し冷め、蓮根の穴にたまった甘い醤油が舌へ落ちた。中の鶏肉だけは、まだ小さな熱を残していた。