蓮根を透かす昼
大学院の入学試験が始まる二十分前、香坂碧依は校舎裏のベンチで弁当を開いた。母が作った蓮根のきんぴら丼だった。輪切りの蓮根が、ごはんを隠すほど重なっている。
受験票は鞄に入っている。けれど碧依は試験を受けるつもりがなかった。研究を続けたいと言ったのは二年前の自分だ。母はパートを増やし、受験料も予備校代も出してくれた。今は、内定をもらった編集プロダクションで働きたい。待遇はよくない。それでも、論文を書くより本を作るほうへ心が動いていた。
母に言えば、払ったお金を無駄にしたと思わせる。夢を応援した時間まで否定することになる。そう考え、今日まで受験するふりをした。その嘘を誰にも言えなかった。
蓋を開けると、ごま油の香りがした。蓮根は冷めても歯にしゃきりと当たり、穴の向こうに白いごはんが見えた。母は、先が見通せるようにと、試験の日には必ず蓮根を入れた。
碧依は一枚を箸で持ち上げ、穴越しに校舎を見た。丸い景色の中を、受験生たちが玄関へ入っていく。先が見えるどころか、見える範囲は小さかった。少し手を動かせば、映るものも変わった。
一枚、二枚と食べる。噛むたびに乾いた音が頭の内側へ響いた。受験をしないことは、学んだ二年を捨てることではない。母のお金を別の未来へ持ち逃げすることでもない。ここまで来たから、向いていないことが見えた。
最後の一枚を受験票の上へ置いた。油が紙に丸く染みた。碧依はそれを半分だけ食べ、残り半分ごと受験票を二つに折る。
試験開始の鐘が鳴った。碧依は立ち上がり、校舎とは反対の出口へ歩いた。
空にした弁当箱の写真を母へ送り、「受けなかった。帰ってから話す」と一行だけ添えた。
二年間の勉強で覚えたことは、試験会場の外へ持ち出せる。読んだ本も、書いた文章も、母と受験料を数えた夜も、合格通知がなければ消えるものではない。碧依は空の箱を閉め、無駄になった時間ではなく、進路を変えた時間として持ち帰った。
蓮根の穴ほどの返事を待つ場所を、画面に残したまま。