誤植を解かない商学院試験

「問七だけは簡単だ。赤字の数字をそのまま転記しなさい」

 帝国商学院の筆記試験。監督官の声、窓辺の雨、机に置かれた赤い羽根ペンまで、イネスの記憶どおりだった。

 前の人生の彼女は指示に従った。売上千二百金貨を一万二千と転記し、帳簿を完成させた。模範解答と同じなのに、後日「不正な水増しを見抜けなかった」と不合格にされた。首席になった貴族の答案だけは、なぜか正しい数字へ直されていた。

 倒産した実家の倉庫を整理していた六年後、試験問題の原版を見つけた。赤字は印刷ミスではない。受験生が命令と帳簿のどちらを信じるか測る、隠し設問だった。そして監督官は毎年、特定の家の子だけに答えを教えていた。

 時間は問七で戻った。

「そのまま転記しなさい。余計なことは考えなくていい」

 前のイネスなら「承知しました」と書いた。

 今度は赤い羽根ペンを置いた。

「転記しません」

 監督官が近づく。

「指示違反だぞ」

「帳簿の左頁では、商品百二十箱を一箱十金貨で販売しています。売上は千二百。右頁の一万二千では、差額一万八百が宙に浮きます」

「問われたことだけ答えろ」

「商人がそれをすれば、命令どおりに会社を潰します」

 イネスは数字を書き直す代わりに、赤字の横へ一本線を引いた。

【転記拒否。原帳確認を要求】

 その瞬間、机の下で歯車が鳴った。問題冊子の表紙に隠されていた金の紋章が浮かぶ。本来の採点装置だ。

 周囲の受験生の冊子は沈黙している。だが一冊だけ、首席候補の机でも同じ金紋が薄く光っていた。そこには既に正しい千二百が書かれている。試験開始前に答えを知っていた証拠だ。監督官の顔から血の気が引いた。

 奥の扉が開き、学院総裁が入ってきた。

「今年も一人も見抜けぬと思っていたが」

 総裁はイネスの答案を掲げ、問七の裏にある文章を全員へ見せた。

【命令より事実を選んだ者を、特待生とする】

 前の人生では翌朝届いた不合格通知が、机上の採点器から吐き出されることはなかった。

 代わりに金縁の札が一枚、イネスの前へ滑ってきた。

【首席合格/監査科】