赤いアルバムの半分

父から電話が来たとき、千紘は古い写真を一枚も持っていなかった。

「物置を空ける。お前のアルバム、赤と青が二箱あるけど、どっちを送ればいい」

赤は幼稚園から小学校、青は中学から高校。父が写真を撮る人ではなかったから、写っているのは運動会の遠景や、誰かの肩で半分隠れた顔ばかりだ。それでも箱ごと受け取れば、六畳の部屋の棚を一段使う。

「両方処分して」と言いかけ、千紘は止まった。二十九歳が近づくほど、何も残さない選択が潔く見えた。過去に執着しない人は、前へ進んでいるように見える。

反対に全部取っておけば、いつか誰かに見せる自分の歴史になる。けれど、その「いつか」の相手は具体的な顔を持たなかった。

「赤だけ送って」

父は驚いた。「高校のほうじゃなくて?」

赤いアルバムには、歯が抜けた笑顔も、泥だらけの靴もある。千紘が自分で覚えていない時代だった。青い箱には、忘れたふりをしている出来事が多すぎた。

「青は、中を見ないで捨てて」

父は「本当にいいんだな」と二度確認した。

電話のあと、父から二枚の写真が届いた。赤い箱に貼られた「発送」の紙と、青い箱に貼られた「廃棄」の紙。どちらの文字も父の筆跡だった。

千紘は胸が痛んだ。捨てたいものだけでなく、あとから必要になるかもしれない一枚まで失う。選別を父に任せず、箱ごと決めたのだから、その可能性も自分の責任だった。

「お願いします」と返信すると、既読がついた。

翌朝、発送通知と処分完了の連絡が同時に届いた。千紘は赤い箱の到着日だけをカレンダーに入れた。届かない青い箱の分まで、空けた棚を自分で使うと決めた。

届いた赤い箱は、思ったより軽かった。最初のページには、千紘が知らない女の子と手をつないだ写真があり、裏に名前はなかった。青い箱なら答えがあったかもしれない、と一瞬考えた。父へ処分を止められないか聞くこともできたが、完了通知はもう三日前だった。千紘は写真を抜かず、ページをめくった。分からないまま残る人と、分からないまま消えた人。その両方を、自分が選んだ記憶の形として棚の一段に収めた。