赤を着て帰る
母が試着室のカーテン越しに、ベージュのコートを差し入れた。
「朱音にはこっち。赤は顔が負けるから」
朱音は鏡の前で、赤いコートの襟を立てていた。鮮やかすぎると思ったのは最初の三秒だけで、見慣れると、自分の頬にちゃんと血の色があることに気づいた。
「聞こえてる?」
「聞こえてる」
「じゃあ着替えて。店員さんも待ってるでしょう」
カーテンを開けると、母はベージュのコートを腕に掛け、選択が終わった顔をしていた。子どものころから、卒業式も面接も親戚の結婚式も、母は「目立たないのが上品」と言った。朱音のクローゼットには、砂や雲や薄い茶色ばかりが並んでいる。
「赤にする」
「一冬で飽きるわよ」
「飽きたら、そのとき考える」
「高い買い物で失敗しないように言ってるの」
「失敗する権利も、今日は一緒に買う」
母の口が細くなった。店員が気まずそうにハンガーを受け取ろうとすると、母はベージュを離さない。
「お会計、私が出すから。こっちにしなさい」
「自分で払う」
朱音は赤いコートの値札を持ってレジへ向かった。母の足音が追ってくる。
「そんなに反抗したい?」
「反抗じゃないよ。買い物」
「親の意見を無視して?」
「意見は聞いた。選ばなかっただけ」
レジの画面に金額が出た。少しだけ高い。来月の外食を二回減らせばいい、と朱音は計算した。母が財布を開くより先に、自分のカードを差し込む。
暗証番号を押す四回の音が、妙にはっきり聞こえた。
店員が「着て帰られますか」と尋ねる。
母は「袋に入れてください」と答えた。
朱音は店員を見て言った。
「着て帰ります」
タグを切る小さなはさみの音。母が持っていたベージュのコートは、店員の手で売り場へ戻されていった。
外へ出ると、冷たい風が襟元へ入った。赤い布は思ったより重く、肩にぴたりと乗った。母は隣で黙って歩き、ショーウインドーに映る二人をちらりと見た。
駅の分かれ道で、母が言う。
「……遠くからでも、すぐ分かるわね」
「見つけなくていい日もあるよ」
「そう」
朱音は母と別れ、赤い袖から手を出して改札に触れた。ガラスに映る自分は目立っていた。けれど、誰かに見つけてもらうためではなく、自分を見失わないための色だった。