踊らないための一曲

エルナは、手首をつかまれるのが嫌いだった。

前の婚約者は、言うことを聞かせるたびそこを握った。痣が消えたあとも、誰かの指が近づくだけで肩が固まる。

ジークフリート公爵は一度で気づいた。馬車を降りる際、彼女が差し出された手を避けたのを見てから、決して腕を取らない。階段では先に降り、掌を上向けて待つだけ。触れるかどうかは、いつもエルナに任せた。

王宮舞踏会の夜、彼は遅刻した楽師を無表情で退場させ、酔った侯爵を近衛へ引き渡した。氷の公爵が通るたび、人の輪が割れる。

そんな彼の袖を、王女が引いた。

「婚約者との最初の舞を見せて。今夜の余興よ」

命令に近い頼みだった。広間の中央が空き、楽団が構える。

エルナは笑顔を作った。踊りは嫌いではない。ただ、大勢に囲まれ、逃げられない中央で手を取られると思うと、指先が冷える。

ジークフリートは彼女の前に立った。

「踊るか」

低い声。周囲には求婚の宣言に聞こえただろう。けれど彼の右手は胸元に置かれたまま、伸びてこない。

王女が焦れて言う。

「公爵、女性には少し強引なくらいが喜ばれるものよ」

「エルナは喜ばない」

たったそれだけで、広間が静まった。

「ですが、もう曲を始めてしまいました」と楽長が困惑する。

ジークフリートは冷たく答えた。

「ならば演奏だけ続けろ。音楽に踊りを強制する権利はない」

エルナの元婚約者が客の列から笑った。

「相変わらず気難しい女だ。腕を取ってしまえば従順になる」

次の瞬間、公爵の視線が彼を射抜いた。

「その呼び方も、その考えも、二度と彼女へ向けるな」

ジークフリートは近衛に追い出せとは命じなかった。代わりにエルナへ尋ねる。

「彼を残すか、退場させるか。君が決めろ」

公爵の権力を、彼女を囲うためではなく、選ばせるために差し出している。

エルナは元婚約者を見た。

「退場を」

近衛が動く。その後で彼女は自分から一歩進み、ジークフリートの上向きの掌へ、そっと指先を置いた。

「一曲だけ。私が離したら、終わりにしてください」

「もちろんだ」

氷の公爵は、その夜初めて微笑んだ。そして音楽が続く中、彼女が握った強さ以上には、決して握り返さなかった。