軌道上の空席

午前四時二分、木食英司は軌道研究棟の警報を聞いた。酸素圧は四十七キロパスカル。時間復元装置の残量は一回。

隔壁の向こうで斑鳩征が、白いチェスのナイトを通信窓へ押し当てる。

「ハッチを閉めろ」

四分後、征は破損した実験区画を内側から封鎖し、真空へ消える。英司は八回、警報直後へ戻った。

最初は二人で補修したが間に合わなかった。次は征を拘束し、自分が内側へ入った。征が解除コードを使って追ってきた。遠隔閉鎖は配線が焼けている。圧力が六十を下回ったまま四時六分を迎えると、復元装置が征の死亡を検知して時間を戻した。

成功条件は四時六分、居住区圧力六十以上、征の生命反応あり。

最後の試行で、またナイトが窓へ触れた。

「ハッチを閉めろ」

「閉めない。棟ごと捨てる」

破損区画は十年分の観測データと、地球帰還用の推進剤タンクにつながっている。切り離せば圧力は戻る。しかし帰還軌道へ乗る燃料を失い、次の補給船は十七年後だった。

英司は分離承認を押した。征が叫ぶ。

「お前の研究も全部だぞ」

「空席より軽い」

爆発ボルトが連続して鳴り、実験棟が闇へ離れた。観測データ、博士号の根拠、地球へ帰る予定表が一つの光点になる。

四時六分。圧力六十二。征の生命反応あり。時間は戻らない。

二人は生きた。ただし帰還者名簿からは消え、十七年分の食料配給計算を始めることになった。

管制からは「救助計画未定」の四文字だけが届いた。二人は帰還祝いの酒を飲料水へ戻し、個室一つを水耕棚へ作り替えた。征は何度も分離を責めたが、英司は謝らなかった。謝れば、十七年を相手の命の代金にしてしまう。地球にいる母へ用意した映像手紙は送信期限を過ぎ、宛先が灰色になった。英司は削除せず、帰れない者の私物フォルダへ移した。

帰還予定日を記した壁のカレンダーは、征が黙って外した。英司はその裏へ十七年分の配給表を書き始めた。空白の日付を数えるより、減っていく豆の数を数えるほうがましだった。

白いナイトは分離の衝撃で窓から浮き、空いていた第三席へゆっくり落ちた。英司はそれを拾わず、地球の青さが小さくなるのを見ていた。