辞任後の同意書

介護ロボット企業「ソフトアーム」への投資契約会議で、折戸川千紗は投資家側の法務補助だった。投資条件には、創業者二名全員の同意と、保有特許の会社帰属が定められている。

共同創業者の一人、曽根崎の同意書には電子署名があり、時刻は九月三日午前十一時四分。内容上の不足はなかった。

千紗は商業登記を確認し、手を止めた。曽根崎は同日午前九時、取締役を辞任している。辞任そのものは同意権を失わせないが、会社は「現任取締役として署名した」と保証していた。

創業者は、登記申請が後だっただけで、実際の辞任は午後だと説明した。

千紗は辞任届の写しを出した。曽根崎の自筆で「九月二日付」とある。受付印は三日午前八時四十七分。同意書より前だった。

さらに電子署名の端末情報は、曽根崎のものではなく創業者の社用タブレット。署名依頼メールが送られたのは十一時二十二分で、表示された署名時刻より十八分遅い。

「代理で処理した。本人は同意している」

千紗は曽根崎から届いた内容証明を読み上げた。投資条件に反対し、特許を無断で担保提供しないよう通知している。送達時刻は午前十時三十一分だった。

投資責任者は、創業者同士の内紛にすぎないと言った。千紗は同意保証条項を指した。虚偽なら投資直後から契約違反になる。

創業者は千紗へ、若い補助員が四十人の雇用を止めるのかと迫った。

「止めるのは私ではなく、本人より十八分早く現れた署名です」

千紗は曽根崎本人と音声通話をつないだ。曽根崎は、創業者から署名用リンクを受け取っておらず、特許を新会社へ移す条件にも反対していると答えた。創業者は通話相手が本人か疑ったが、本人確認用の合言葉と退任届原本の番号まで一致した。

千紗は内容証明の封筒も提示した。消印と配達証明がそろい、投資側が疑義を知った時刻まで記録されていた。知らずに押すという逃げ道も、もう残っていなかった。

投資家代表は契約書の署名ページを抜き取った。辞任後に作られた同意が、三十億円の決裁を止めた。