返す容器
祖母が頼んだのは、隣の家へ保存容器を返すことだった。
「空では返せないから、みかんを二つ入れて」
美濃部佳乃は、流しの横に置かれた四角い容器を持ち上げた。昨夜、隣人がきんぴらを入れて持ってきたものだ。祖母は二口しか食べられなかった。今日の午後、訪問医は、もう週末までは難しいだろうと言った。
「今じゃなくても、あとで私が返すよ」
「今、返して」
祖母は居間の布団から、声だけを台所へ届かせた。
佳乃は容器を洗った。油が角に残り、スポンジを押し込む。蓋の溝にもごまが一粒挟まっていた。たった一つの容器を洗うのに、こんなに時間がかかるのかと思った。
水切り籠に伏せると、祖母が「拭いて」と言った。
「乾くまで待てばいいでしょ」
「水滴がついたままじゃ、みかんが濡れる」
佳乃は布巾で内側を拭いた。冷蔵庫の野菜室には、みかんが五つあった。祖母は小さいものを二つ選ぶよう言った。大きいほうは明日食べるつもりなのかもしれない。佳乃はそれを聞かなかった。
容器の底には、油性ペンで隣人の名字が薄く書かれていた。祖母は近所の器を絶対に混ぜなかった。葬儀や入院の話より、誰の蓋がどの容器に合うかを正確に覚えている人だった。佳乃は文字が消えないよう、布巾で強くこするのをやめた。
二つを容器へ並べると、隙間が大きすぎた。祖母の指示で、広告紙を細く折り、間へ詰めた。蓋を閉める。右下の角だけ浮いた。
「そこ、先に押すの」
言われた通りにすると、ぱちんと四辺がそろった。
隣家までは七歩だった。途中、境界の植木鉢に水がたまり、佳乃はそれを避けて八歩になった。呼び鈴を押すと、エプロン姿の女性がすぐ出てきた。祖母の具合を聞かれると思い、「今日は静かにしています」と言葉を用意していたが、女性は容器を受け取り、まず蓋の裏を見た。
「ごま、取れた?」
「取れました」
「おばあちゃん、あれ気にするものね」
女性はみかんを見ても礼を言わなかった。ただ、容器を両手で抱え、家の中へ戻った。
佳乃は祖母の家へ戻り、玄関を閉めた。居間から「返せた?」と声がした。
「うん」
濡れた布巾を流しの縁へ掛け、しわを両手で伸ばした。