返却ポストの赤い傘
市立図書館の職員用傘立てで、波多野乃梨子の赤い傘が灰色の傘に替わっていた。
閉館まであと二十分。外は街灯がにじむほどの雨だ。傘立てへ近づいたのは、大学生ボランティアの立石絢、受験生の小泉直央、常連の杉戸文枝の三人だった。
絢は返却本を運び、小泉はコピー機を使い、杉戸は朗読会のあと先に帰ったという。
灰色の傘の持ち手には、古い図書館の管理札が付いている。返却ポストの本は下の端だけ濡れ、運搬カートの角には赤い糸が引っかかっていた。正面玄関からではなく、返却口の脇を通って誰かが出たらしい。
乃梨子はカートを押した絢を探した。閲覧室にはいない。小泉が窓を指さすと、バス停へ続く歩道に赤い傘が見えた。
絢は杉戸の腕を取り、ゆっくり歩いていた。
杉戸は最近、視力が落ちた。暗い雨の中では、灰色の傘も白線も見えにくい。それでも人に付き添われるのを遠慮し、「一人で帰れます」と笑う。バスの時刻表を読むふりをして、何度も眼鏡を拭いていた。助けを求める代わりに、雨粒のせいにしていたのだ。
絢は朗読会で、その声が少し震えていることに気づいた。赤い傘なら杉戸にも輪郭が見え、前を歩く絢の位置が分かる。だから乃梨子の傘を借り、代わりに自分の灰色を置いたのだ。
「声をかければ貸したのに」
バスを見送ったあと、乃梨子が言うと、絢は濡れた靴先を見た。
「前に杉戸さん、返却期限を過ぎた本のことで謝っていたでしょう。もう迷惑をかけたくないって」
「それは本の話です」
「本人には、全部同じに思えたみたいで」
絢は図書館へ来たばかりの頃、何冊も返却を遅らせた学生だった。乃梨子が責めずに、返す方法を一緒に考えた。そのことを、絢は覚えていた。
「借りたものは、返せばいいって教わったので」
赤い傘の持ち手には、杉戸が握った水滴が残っていた。乃梨子は灰色の傘を絢へ返し、職員室の飴の缶を開けた。赤い苺味を一つ渡す。
「この傘の返却期限は?」
絢が尋ねる。
乃梨子は飴を口に入れた。
「次に、見えにくい雨が降るまでです」