退去立会いは午前十時
午前十時、三人は管理会社の点検アプリを囲んでいた。担当者は渋滞で遅れ、先に傷の写真を撮っておいてほしいという。
〈壁面のへこみ:原因を選択〉
「直哉」
土門絢が言った。
「俺じゃない」
蟹江直哉は即答した。
岡部葉音がへこみに定規を当てる。ちょうど拳一つ分だった。
三年前、絢が公務員試験に落ちた夜、直哉が「もう一年やればいい」と言い、絢がクッションを投げた。外れたクッションを避けた葉音が、椅子ごと壁へぶつかった。原因は三人に分けられる。写真にはへこみしか写らず、その夜の励ましも苛立ちも記録されない。
〈居住者の過失〉
葉音が選んだ。
次は床の焦げ跡だった。
「たこ焼き器」
「葉音の島祝い」
葉音は四月から、瀬戸内の小学校で期限付き教員になる。採用通知が届いた夜、三人は百個焼き、最後の一個を床へ落とした。
絢は市役所の採用が決まり、実家から通う。直哉だけは卒業後もこの町に残り、駅の反対側にある別のシェアハウスへ移る。
「また知らない人と住むの」
絢が聞く。
「一人暮らしできる給料じゃない。映像の仕事、業務委託だし」
「就職って言ってたじゃん」
「親にはね」
〈網戸の破れ:原因を選択〉
「これは絢」
直哉が言う。
「違う、猫」
「猫を追い出そうとして破いたの絢」
「猫を入れたの直哉」
「餌やったの私」
葉音が選択肢をスクロールし、〈経年劣化〉を押した。
三人は笑った。ずっと、こうやって誰か一人の責任を三人で曖昧にしてきた。家賃の遅れも、洗剤の買い忘れも、将来を決められないことも。
最後に表示されたのは、〈残置物〉だった。部屋の中央に、脚のぐらつく椅子が一脚ある。直哉が次の家へ持っていくと言ったが、絢は「また壁にぶつける」と止めた。葉音の島へ送るには送料が高すぎる。
写真を撮り、三人は〈廃棄〉を選んだ。
午前十時十二分、アプリに〈立会い完了・居住者数0〉と表示された。担当者はまだ来ない。三人は玄関で靴を履き、最後まで部屋に残った椅子だけが、誰の過失にもならない角度で壁を向いていた。