透明な表紙の海

凪紗は、引退届を提出する前に、ロッカーから透明なノートを取り出した。

水泳部だった高校時代、汀と回した防水の交換日記だ。濡れた指でも書ける鉛筆を紐で結び、練習後のプールサイドに置いていた。

最後の大会で、凪紗は県記録を出した。

観客席の歓声より先に汀を探したが、彼女は拍手をせず、空のコースを見ていた。汀は母親の介護で練習を休みがちになり、その大会を最後に退部すると決めていた。

閉館前のプールで、二人は水を抜いた底へ降りた。いつも頭上にあった飛び込み台が、見上げるほど高かった。

汀は透明なノートへ書いた。

〈私の分まで泳いで、って言わないからね〉

凪紗は腹を立てた。

「なんで。私が勝ったの、嬉しくないの」

汀は鉛筆を握ったまま、しばらく黙った。

〈嬉しい。でも凪紗が私の分まで泳いだら、いつか二人分の重さで沈む〉

凪紗は返事の代わりに、空のプールを走った。底に残った水で足を滑らせ、二人で笑った。笑いながら汀が泣いているのを、透明な表紙越しに見た。

あれから十年、凪紗は実業団で泳ぎ続けた。汀とは年に一度だけ会う。彼女は介護福祉士になり、泳ぐことはない。

凪紗の肩はもう、朝起きるだけで痛む。テーピングを外すと皮膚に白い跡が残る。記録は落ち、後輩のコースを奪っている気がしても、辞めれば汀との約束まで失うようで決められなかった。大会名の印刷された引退届は、三週間もロッカーの奥で湿気を吸っていた。

ノートの最後には、当時の凪紗の乱れた字がある。

〈じゃあ私は、私の分だけ泳ぐ〉

その約束は、泳ぎ続けることではなかった。自分の重さで、自分の行き先を選ぶことだった。

凪紗は引退届に署名した。

午後からはジュニア教室の見学へ行く。競技を離れても、水を嫌いになる必要はない。

透明なノートを鞄へ入れ、塩素の匂いを一度深く吸ってから、プールの扉を閉める。

向こう側で子どもたちの水しぶきが上がった。

凪紗はもう飛び込まず、その音に向かって歩いた。