配達先のカステラ
宅配便の配達員は、団地の最上階に住む老人が苦手だった。
呼び鈴を押しても出るまで遅い。
受領印を探し、必ず天気の話をし、最後に飴を一つ渡そうとする。
忙しい日は、会話を途中で切り上げた。
夏の制服として渡された試作品のベストには、冷却機能のほか、荷物を持っていない間だけ姿を消す機能があった。
誤作動で透明になり、配達員は老人の部屋の前から動けなくなった。
ちょうど隣人が通りかかった。
老人が扉を開ける。
「今日は配達の人、まだ?」
「毎日何か頼んでるんですか」
「一人で来るの、あの人くらいだから」
配達員は息を止めた。
部屋の机には、安いカステラが小さく切られていた。
飴ではなく、本当は毎回一切れ渡したかったらしい。
だが衛生上迷惑かもしれないと考え、個包装の飴に変えたという。
「忙しそうだから、話しかけない方がいいんだけどね」
老人が言う。
「でも、黙って印だけ押すと、今日は誰とも声を出さなかった日になる」
配達員は、自分が老人の孤独を支えているという美談にしたくなかった。
仕事は仕事だ。
一人ひとりへ長話をしていれば配り終えない。
それでも、急がせる声が相手の一日で唯一の会話かもしれないことは、知ってしまった。
ベストの誤作動が直り、姿が戻った。
老人と隣人が驚く。
配達員はごまかさず、
「すみません、そこにいました」
と謝った。
「聞いた?」
「少し」
老人は恥ずかしそうにカステラを隠した。
次の配達から、配達員は一つだけ質問を決めた。
「今日はどうでしたか」
答えが長くなれば、全部は聞けない。
「続きは次回」と言う。
天気だけの日も、病院の話の日もあった。
会社には、集合受取箱を導入する案が出た。
効率は上がる。
配達員は反対しなかった。
ただ希望者には対面を残す欄を作ってほしいと提案した。
老人は対面を選んだ。
週に一度しか注文しなくなった。
届くのは、配達員へ渡せないカステラではなく、自分で食べるための茶葉だった。
ある日、老人が入院した。
隣人から聞き、配達員は休憩時間に病院へ寄った。
荷物はない。
だから透明ベストを着ていたら消えたかもしれない。
普通の制服のまま病室へ入り、
「今日はどうでしたか」
と聞く。
老人は笑い、枕元のカステラを半分に割った。
今度は配達規則の外だったので、配達員は受け取った。