金曜日の紫紺スカーフ

朝倉詩依は、金曜の終業後にそのままライブへ行く予定だった。推しているダンスボーカルグループ〈NEST〉の衣装に合わせ、紫紺の細いスカーフを首へ巻く。会社では明るい色を身につけないため、駅の化粧室で替えるつもりだった。

ところが朝、家を出る直前にオンライン会議が一件増え、スカーフを外し忘れた。エレベーターの鏡で気づいたときには、営業フロアの階に着いている。

詩依は結び目をほどき、鞄へ押し込もうとした。布の端がファスナーに噛み、糸が引かれる。限定衣装の柄を再現するため、何軒も店を回って見つけた一枚だった。

「動かさないで」

営業統括の植松恭子が、後ろから小さな安全ピンを差し出した。怖いほど身だしなみに厳しい上司だ。詩依は叱られると思い、先に言い訳した。

「勤務中に趣味のものを着るつもりではなくて」

「スカーフは服飾品でしょう。顧客規定にも反していない」

恭子は布を傷めない角度でファスナーを戻し、引かれた糸をピンの先で整えた。その手首に、紫紺の細いブレスレットが見える。〈NEST〉の初期ロゴを抽象化した、ファンクラブ継続特典だった。

「植松部長も、同じ推しですか」

「リーダーの黎。あなたもでしょう」

衣装の柄まで見抜かれて、詩依の顔が熱くなる。だが恭子はライブの回数も席も聞かなかった。

午後、急きょ取引先の来社が決まった。詩依はスカーフを外そうとしたが、恭子が資料を確認しながら言った。

「そのままで問題ありません。仕事の質は布の色で変わらない」

面談中、取引先の女性がスカーフを褒めた。詩依はいつものように「いただきものです」と逃げかけ、言い直した。

「好きなアーティストの衣装に近い色なんです」

相手は「きれいですね」と笑い、商談はそれ以上広がらずに終わった。

終業後、詩依は駅の化粧室へ寄らなかった。首元の結び目を少しだけ華やかに直し、そのまま会場へ向かう。

会社員の自分を脱いでファンになるのではない。紫紺の布一枚ぶん、同じ自分が続いていた。