金魚係、夏
夏休みの教室で、金魚だけが出席していた。
飼育係は私と笹森皓。七月の終わりから一日交代で餌をやり、水温を記録する。顔を合わせないように組まれた当番表だったから、私たちの会話は飼育日誌の余白だけだった。
『赤い方、食べすぎ』
『名前をつけた。赤い方が大臣、白い方が部長』
『勝手につけないで』
『では命名会議を要求する』
くだらないやり取りが、数日ごとに増えた。
八月十二日、私が教室へ入ると、水槽の前に笹森がいた。当番を間違えたのかと思ったが、彼は空の段ボール箱を持っていた。
「今日、私の日だけど」
「知ってる」
笹森は黒板を見たまま言った。
「引っ越すことになった。明日」
飼育日誌には何も書かれていなかった。クラスのグループにも、先生からの連絡はない。私は手に持っていた餌の袋を強く握った。
「急すぎない?」
「親の都合。九月から向こう」
「じゃあ、金魚係は?」
口から出たのは、そんな言葉だった。
笹森は笑った。「そこ?」
私も笑おうとしたが、できなかった。毎日話すほど仲がよかったわけではない。むしろ学校では、必要なことしか話さなかった。それなのに、日誌の余白が急に最後のページになったことが悔しかった。
笹森は段ボールから小さな瓶を出した。金魚の餌だった。
「大臣と部長、頼む」
「名前、認めてない」
「じゃあ今日、会議しよう」
二人で教室の床に座り、水槽を眺めた。大臣は本当に食べすぎで、部長は水草の陰から出てこない。名前の候補を十個出し、結局どれも今より悪くて、そのままに決まった。
帰る前、笹森は飼育日誌の最後に書いた。
『八月十二日、命名会議。大臣と部長で可決。反対一、賛成一。議長判断。』
私はその下へ書き足した。
『九月から欠席一。日誌は写真で送ること。』
笹森は、初めて私に個別の連絡先を見せた。
翌日から、教室にはまた私と金魚しかいなかった。それでも餌をやるたび、日誌の写真を送った。遠い町から届く返信には、いつも同じ一言がついた。
『本日も出席。』