閉店札の内側
乾冬弥が喫茶「余白」の扉を押したのは、夜の十一時を過ぎていた。
札には大きく「閉店」とある。それでも扉は、待っていたように軽く開いた。
店内では、白髪の店主が椅子を机に上げていた。
「コーヒーは終わりました」
「すみません」
「スープならあります」
追い出されると思っていた冬弥は、うなずくことしかできなかった。
その日の朝、工場が倒産した。
昼には社員寮を月末で出るよう言われ、夕方、婚約者から《少し距離を置こう》と届いた。実家へ電話をかけたが、父の声が聞こえた瞬間に切った。二十八にもなって帰れない、と意地を張った。
駅前を歩き続け、最後に目についた灯りが「余白」だった。
店主は、野菜の形が崩れたスープと厚いトーストを出した。
「お代は」
「財布にあるだけで」
冬弥は小銭を数えた。百三十七円。
店主は百円玉一枚だけ取り、三十七円を押し返した。
「明日の電話代」
何の電話か聞かれなかった。
仕事を失った理由も、帰れない理由も、婚約者のことも。
冬弥は黙って食べた。人参が甘かった。温かいものを飲み込むたび、喉の奥で固まっていた言い訳が少しずつ溶けた。
「ここ、何時までですか」
「十時」
「じゃあ、どうして開いたんでしょう」
店主は扉を見た。
「さあ。古いから、鍵も気まぐれです」
冬弥は午前零時まで店にいた。
帰り際、店主が公衆電話の番号を書いた紙を渡した。駅の向こうに、朝まで人を受け入れる宿があるという。
外へ出ると、扉は背後でかちりと閉まった。押してみても、もう動かなかった。
翌朝、冬弥は父に電話した。
怒鳴られると思ったのに、「何時に着く」とだけ聞かれた。
実家へ戻り、町工場で働き始めた。婚約はなくなったが、数年後、別の人と暮らし、小さな娘が生まれた。
十年たった冬の夜、冬弥は出張先で「余白」を見つけた。
閉店札も、窓の灯りも、あの夜と同じだった。
礼を言いたくて扉を押した。
開かなかった。
何度押しても、引いても、古い扉はびくともしない。
冬弥はガラス越しに店内を見た。白髪の店主が、見知らぬ若者へスープを運んでいる。若者は濡れた鞄を抱え、うつむいていた。
冬弥は扉から手を離した。
携帯電話には、妻から《娘が起きて待ってる》と届いていた。
彼は閉じた扉に深く頭を下げ、駅へ急いだ。
今夜の自分には、開かないことが、何よりありがたかった。