陸で声を失う人魚の泡菓子
夕暮れ、菓子店〈青い貝殻〉へ入ってきた女性は、一言も話さず濡れた紙を差し出した。
――人魚コラリエ。陸では声が出ない。明朝、港の通行税について交渉する。筆談では正式な発言と認められず、このままでは海の民だけ税が三倍になる。
店主ネリスが紙を読む間にも、コラリエの喉元の鱗は乾いて白くなっていった。水を飲んでも数息しか潤わないらしい。
濡れた紙の裏には、交渉で伝える予定の数字が何度も書き直されていた。海中では群れを導く歌い手なのに、陸へ上がった途端、周囲は彼女を飾り物の使節として扱う。声がない者には反対意見もないと決めつけられ、税の案は本人の目の前で通されようとしていた。紙の端は、悔しさで何度も握り潰されていた。
ネリスは硝子鉢から、真珠色の丸い菓子を一つ取り出した。触れると、指先でふわりと縮む。
「潮泡菓子です。海水を泡の膜に閉じ込めています。喉でゆっくり溶かしてください」
値段を示すと、コラリエは疑うように眉を寄せた。それでも菓子を口へ運ぶ。
歯を立てた瞬間、しゅわ、と波が崩れる音がした。塩気のあとに白蜜の甘さが広がり、乾いた鱗へ青い光が戻る。彼女は胸を押さえ、恐る恐る息を吐いた。
「あ」
小さな声だった。次にもう一度、今度ははっきり言った。
「わたしは、コラリエ」
自分の名を自分の声で聞いた彼女は、両手で口を覆った。涙は海水の粒となり、頬から落ちる前に光った。
ネリスは交渉文の紙を返した。
「効果は半日です」
「十分です。半日あれば、三倍の税を三分の一まで下げてみせます」
さっきまで筆談しかできなかった人魚の言葉は、鐘のように澄んでいた。
コラリエは代金として小粒の真珠を一つ置き、さらに大きな真珠を隣に並べた。
「後者は予約金。明日の夜、同じものを十個。声を奪われているのは、わたし一人ではありません」
足取り軽く店を出る。乾いた路地に、彼女の歌うような挨拶が遠ざかった。
ネリスが二つの真珠を箱へ納めたとき、ちりん、と貝殻のベルが鳴った。