隣の部屋のカレー

隣の部屋からカレーの匂いがしてきたのは、夜八時を少し過ぎたころだった。

玉ねぎを炒めた甘い匂いと、鍋の蓋を開けたときの湯気まで、薄い壁を通ってくる気がした。私はパソコンを閉じたばかりで、夕食のことを何も考えていなかった。

冷蔵庫にはヨーグルトと卵が一個。棚にはクラッカーが半袋。昼に食べ損ねた栄養補助バーも鞄にある。空腹はあるのに、料理を始めるほどの形をしていなかった。一人分だけ作ることは、量を減らすだけではない。残り物の予定まで一人で引き受けることだと、暮らし始めてから知った。

隣では、食器の触れ合う音がした。誰かと暮らしているのか、一人なのかは知らない。廊下で会っても顔が分からない。ただ、火曜になるとカレーの匂いがする。私が残業で遅くなった週も、熱を出して有休を取った週も、だいたい同じ時間だった。壁の向こうの習慣は、時計より頼りになることがある。たぶん多めに作って、何日か食べる人なのだ。

私は戸棚の奥を探した。引っ越しのとき母が入れたレトルトカレーが一袋、賞味期限を三か月残して見つかった。米はない。冷凍庫にもない。

買いに行くことを考えたが、外は雨だった。私は食パンを二枚焼き、カレーを小鍋にあけた。電子レンジ対応の袋なのに、鍋にしたのは、少しだけ料理をしている音が欲しかったからだ。

ふつふつと表面が揺れ、香辛料の匂いが部屋に広がる。焦げないよう木べらで混ぜる。隣の匂いと私の匂いが、壁のあたりで重なった。

皿は使わず、マグカップにカレーを注いだ。焼けたパンを細くちぎり、浸して食べる。行儀はよくない。栄養も偏っている。でも熱くて、舌の奥が少し痛いくらい辛かった。

壁の向こうで、スプーンが一度、皿に当たった。私も木べらを流しへ置いた。

同じカレーではないし、食卓を囲んでいるわけでもない。それでも、誰かが食べる時間に自分も食べている。名前も顔も知らない相手と、献立だけが偶然そろっている。そのことだけで、部屋の広さが少し変わった。

パンの耳を最後に浸す。今夜はこれが夕食で、ちゃんと温かかった。