隣室の明日さん
海老沢都季が新居の壁を三度叩くと、隣から一日後の自分が出てきた。
髪も服も同じなのに、目だけが泣き腫らしている。
「明日の企画会議、休んで。提案したら笑われる」
都季は入居を取り消すべきか、〈双見不動産〉へ相談した。
担当の双見了は、右手に黒、左手に白の革手袋をしている。机へ二本の鍵を並べ、無表情に言った。
「隣人は、他人です」
「私なんですけど」
「今日のあなたとは、別の部屋に住んでいます」
了は現地で黒い手袋の手に一号室、白い手袋の手に二号室の鍵を持った。都季が壁を叩くと、明日の都季が現れた。
「絶対にやめて。部長が顔をしかめる。資料も途中で閉じられる」
都季の提案は、女性向け商品の苦情を集め、開発会議へ直接共有する仕組みだった。準備に三か月かけた。けれど明日の自分が失敗したというなら、休んだ方が傷つかずに済む。
「未来を変える方法は?」
「聞く相手を変えることです」
了は二本の鍵を入れ替えた。すると明日の都季の声が少し遠くなる。
「何を言われたかではなく、あなたが何を言ったか訊いてください」
都季は壁へ向かった。
「私は会議で、どう説明したの?」
明日の自分は口を開いたまま固まった。部長の表情も、周囲の反応も語れるのに、自分の言葉だけは一つも答えられない。
了が言った。
「この部屋は、選ばなかった明日を隣へ住まわせます。相談を重ねるほど、隣人は詳しくなる。代わりに、本人の台詞がなくなる」
都季は怖くなった。失敗する未来ではない。何も言わずに休み、あとから傷ついたふりをする未来だった。
「じゃあ、出席すれば成功しますか」
「保証はしません」
了は容赦がない。だが事務所へ戻ると、会議と同じ十分間だけ黙って座り、都季の説明を聞いた。終わってから直したのは、時計を指して「十二分です」と告げた箇所だけだった。
翌日、提案は即採用にはならなかった。それでも資料は最後まで開かれ、次回の検討項目へ残った。
夜、都季が壁を三度叩いても返事はない。了が二本目の鍵を抜くと、隣室の扉そのものが消えた。
「隣人は、他人です」
「もういませんけど」
了は白い手袋の鍵を都季へ、黒い手袋の空の手を自分の胸へ戻した。
「ええ。明日のあなたを、今日のあなたが他人のままにしなかったので」