雨粒を挟んだ図鑑

博物館の修復室で、露葉は波打った植物図鑑を机に置いた。頁の間には茶色い水染みが点々と残っている。高校時代、芙実から借り、そのまま返せなかった本だ。

園芸部の最後の校外観察会は、梅雨の山道だった。顧問は雨が強くなる前に戻ろうと言ったが、露葉は珍しい蘭を撮りたくて列を離れた。追ってきた芙実と沢沿いまで下りたところで、突然の雨に囲まれた。

露葉は新品のカメラを制服の中へ抱え、芙実は図鑑を頭上にかざした。二人で東屋へ走り込んだとき、本は端まで濡れていた。

「ごめん。私が勝手に来たから」

「別に。乾かせば読める」

芙実は笑ったが、学校へ戻ると顧問には「私が誘いました」と言った。推薦入試を控えていた露葉に注意がつかないよう、自分だけが叱られた。

翌日、露葉は図鑑を返そうとした。芙実は濡れた頁を一枚ずつ剥がしながら、「乾くまで持ってて」と押し戻した。

「写真、撮れた?」

カメラには、雨でぶれた緑しか写っていなかった。露葉はそれを言えず、「うん」と答えた。

夏休み前、芙実は部を辞めた。家の花店を手伝うためだと聞いた。露葉は推薦を受け、県外の大学へ進んだ。図鑑を見るたび、守ったカメラと、守ってもらった自分の重さが戻ってきた。

十年後、資料の修復を学んだ露葉は、初めて私物の図鑑に手を入れた。水分を与えて頁を伸ばし、破れを薄い紙で補い、表紙の泥だけは少し残した。作業中、乾いた土の匂いが戻るたび、東屋で二人が肩を寄せた狭さまで思い出した。新品には戻さなかった。雨の跡まで消せば、芙実が差し出したものも消える気がした。

町の花店を訪ねると、芙実は店先で苗を並べていた。露葉が本を差し出すと、彼女は染みを指でなぞった。

「ずいぶん丁寧に乾いたね」

「十年かかった」

「じゃあ、ちゃんと読めた?」

露葉は首を振り、今度は正直に言った。

「あの日の花、撮れてなかった。だから今度、一緒に探したい」

芙実は図鑑を開き、山の頁へ新しい付箋を貼った。雨の跡は道しるべのように、その場所まで続いていた。