雷鳴への苦情
「廊下ではお静かに」
雨の砦町にある宿〈眠り鹿〉では、女主人ケイラが夜回りを欠かさない。消えかけた蝋燭を替え、酔客に毛布を掛け、床板のきしむ場所へ小さな印を置く。夫を亡くした静かな宿主として、町の者は彼女を気遣っていた。だが砦が砲撃を受けた夜も、宿の客は一人として眠りを妨げられなかった。ケイラは厚い壁のおかげだと言い、翌朝には割れた瓦まで直っていた。
傭兵ガシェルは、魔境から戻った晩、その宿へ逃げ込んだ。肩には雷鳴鬼の呪印が焼きついていた。追跡を恐れて眠れずにいると、真夜中、廊下の窓が白く爆ぜた。
雷鳴鬼が壁を透かして立っていた。角の間に嵐を飼い、砦一つを雷で消せる魔族だ。眠る客を人質に、ガシェルへ手を伸ばす。角から放たれた雷は廊下を満たし、扉の向こうで眠る子供の心臓へ枝分かれした。傭兵の剣では一本も止められない。
そこへケイラが、埃取りの布を持って現れた。
彼女は布を一度、ぱん、と払った。
音が消えた。
雷鳴鬼の咆哮だけではない。角に渦巻く雷、窓を打つ雨、遠い見張り鐘まで、世界から切り取られる。魔族は驚いて口を開けたまま、薄い青の粉へほどけていった。客室へ伸びた雷も途中から青い糸に変わり、ケイラの布へ一本ずつ巻き取られる。ケイラが布を畳むころには、その粉も布目の中へ吸われている。
ガシェルには、無音の中でただ一つ聞こえた。魔法が完成する直前、ケイラの指先から鳴った澄んだ鈴の音。大戦で百万の魔物から詠唱を奪った大魔法使い〈静寂妃〉の合図だった。
「あなたが、あの……」
ケイラは唇へ指を当てた。床に残った焼け跡を濡れ布でぬぐい、割れた窓を撫でて元に戻す。ガシェルの肩の呪印も、埃のように取れていた。
数秒後、雨音が戻った。客室からは穏やかな寝息。誰も雷鳴鬼が宿の中まで来たとは知らない。ガシェルだけが、雨より静かな人を初めて恐ろしいと思った。
翌朝、ガシェルが出立しようとすると、ケイラは彼の重い靴音を見送りながら、いつもの柔らかな声で言った。
「廊下ではお静かに」