青いインクの逆回転
野々村真琴は、社内プレゼンを台無しにした記憶に追われていた。
半年前、投影した売上予測の桁が一つ違い、取引先との契約が流れた。会議室で凍りつく役員たち、上司の「君の責任だ」という声だけは鮮明なのに、ファイルを作った夜が思い出せない。
深町碧の指は、いつも青いインクで汚れていた。デジタル時計も羽根ペンで直す変人だと聞いたが、工房で本当にペン先をスマートウォッチへ差し込むのを見て、真琴は帰りたくなった。
「順番を戻します」
碧はそう言い、青い線を作業台に一本引いた。
「数字だけ直せませんか」
「記憶の誤植は、前後を読まないと増えます」
時計が逆回転を始める。失敗した会議、その一時間前、朝の電車、深夜のオフィス。時間が戻るたび、青いインクで新しい時刻が紙に記された。
午前一時十二分、真琴は予測表を完成させ、上司へ送っている。桁は正しい。
午前六時四十分、上司がファイルを開く。午前六時四十三分、セルを一つ書き換える。午前九時、会議直前に「最終版」として真琴へ返す。
「そんな……」
碧は表情を変えず、時計から小さな歯車を抜いた。歯の一つに、上司の編集履歴が刻まれている。
「証拠になりますか」
「記憶は証拠になりにくい。だから、こっちも戻しました」
差し出された封筒には、クラウド上から削除された更新ログの写しが入っていた。青いインクで時刻と照合印が書かれている。
「いつの間に?」
「あなたが、自分を疑っていた順番を戻している間」
真琴は怒るより先に泣いた。半年間、確認を怠った自分が悪い、能力がないのだと何度も謝ってきた。
碧は青い指でティッシュ箱を押したが、慰めの言葉は言わない。
「順番を戻します。まず泣く。次に提出する。辞めるかどうかは、その後」
人事宛てのメールへ封筒のデータを添付し、真琴は送信ボタンを押した。
帰り際、碧が青いインクで修理票に署名する。その指先の染みが、初めて汚れではなく見えた。
「これも戻せないんですか」
「戻しません。書いた責任まで消えるので」
青い線は過去へ引かれたものではない。真琴が次へ進むための、始点だった。