青い魔法瓶の向こう側

雪山の稜線で、案内客が青い魔法瓶の蓋を鳴らした。

「雪は締まっている。予定どおり尾根を越えよう」

白峰環は、その言葉を知っていた。

前の人生では山岳ガイドとして客の要求を断れず、父でもある先輩ガイドと五人を尾根へ進ませた。十分後、表層雪崩が一行を飲み込んだ。環だけが生還し、「若いガイドの判断ミス」と報じられた。父の空の魔法瓶は翌春に見つかり、蓋のへこみが事故の時刻を刻んだ時計のように残っていた。

事故調査で分かったのは、雪崩の原因が前夜の弱い霜層だったこと。そして最初の亀裂は、青い魔法瓶を置いた場所から三メートル上に走っていたことだ。

環は二度目の蓋の音を聞き、首を横に振った。

「尾根へは行きません。ここで下山します」

「晴れているぞ。追加料金まで払ったんだ」

「料金は全額返します。命は返せません」

客が鼻で笑う。父も前と同じように「環、経験者の俺が見る」と一歩踏み出した。

環は父のザックをつかんだ。

「お父さんも行かせない」

初めて公の場で言い切り、全員を岩陰の安全帯へ誘導する。続いて予備ロープへ重い雪錨を結び、誰もいない斜面の端へ投げた。

雪錨が表面を引っかいた。

ぴしり。

青い魔法瓶の向こう側に、一本の線が走る。線は瞬く間に広がり、尾根全体が巨大な板のように滑り出した。

白い奔流が、進むはずだった登山道を丸ごと消す。轟音が谷底へ遠ざかってからも、誰も話せなかった。

父が環の手を見る。彼女はザックをつかんだまま震えていた。

「俺は、あそこを安全だと言った」

「前にも言った」

「前?」

環は答えず、全員のビーコンを確認した。六つの緑灯。前の人生では一つずつ消えた光が、今はすべて点いている。

予定時刻の午前十時十分、救助本部から自動確認が届く。以前は《遭難信号を受信》だった。

画面にはこう表示された。

《全員の下山ルート変更を確認。異常なし》

父が青い魔法瓶を環へ差し出す。

「判断を任せる、ガイド長」

父が初めて、娘ではなく専門家として呼んだ瞬間だった。