風鈴を鳴らした人

 小夜は、祖母の風鈴をベランダへ吊るしたままにしている。

 透明なガラスに青い魚が描かれ、短冊にはもう読めないほど薄く「涼」と書かれている。祖母の家から持ち帰った夏はよく鳴ったが、高い建物に囲まれた今の部屋では、風がほとんど通らない。

 九月の午前一時、風鈴は黙っていた。

 室外機だけが一定の速さで回り、熱い風を吐いている。向かいのオフィスビルには一列だけ照明が残り、誰も見えない机を白く照らしていた。

 小夜はベランダの椅子へ座り、スマートフォンの録音ボタンを押した。

 母に送ろうと思ったのだ。祖母の風鈴がまだあることを、音で知らせたかった。けれど録音されるのは室外機の低音と、遠い救急車と、自分が椅子を動かした擦れだけだった。

 三十秒。

 一分。

 風鈴は鳴らない。

 録音を止めようとしたとき、隣のベランダの戸が開いた。

「まだ暑い」

 女性の声が一言だけした。返事はなく、独り言だったらしい。直後、隣の室外機が動き出す。吐き出された風が仕切り板の上を越え、小夜の短冊をわずかに押した。

 ちりん。

 一度。

 少し間を置いて、もう一度。

 ちりん。

 隣の戸が閉まり、風は途切れた。

 小夜は録音画面を見た。波形の真ん中に、二本だけ高い山がある。送信先に母の名前を出したが、夜中に起こすほどの用事ではない。朝になれば、聞かせたい気持ちも少し変わるかもしれない。

 保存だけして、送らなかった。

 小夜は録音を一度だけ再生した。長い機械音の途中で、ちりん、ちりん、と二つの音が浮く。祖母の縁側も、昔の夏も戻らない。ただ、今のマンションの熱い風まで一緒に録れていることが、かえってよかった。今夜の音として持っていける。再生を止めると、風鈴はまた黙ったが、黙ったまま吊られている姿も以前ほど頼りなくは見えなかった。

 風鈴の下で、短冊がゆっくり元の向きへ戻る。オフィスの照明が一列消え、窓が黒くなった。

 小夜は椅子を片づけず、そのまま部屋へ入った。録音には室外機の音ばかり長く残っている。それでも二度の高い音があるなら、今夜の静けさは空白ではなかった。