鬼の仕立て屋は似合うと言わない
路地裏の仕立て屋には、鏡が一枚もない。
琴葉が転職面接用のスーツを持ち込むと、赤銅色の角を持つ大男が、鼻先の小さな丸眼鏡を押し上げた。手首には、赤い針山が巻かれている。
「似合うは逃げ道だ」
鬼の鉄鷹は、褒め言葉を信用しない。人間は相手を黙らせたいときほど「似合う」と言うらしい。
琴葉は今の会社で五年働いた。後輩の企画を直し、取引先の火消しをし、それでも上司からは「前に出るタイプじゃない」と評価された。
受けたい会社を見つけたが、面接用に買った紺のジャケットを着ると、借り物の自信まで羽織っている気がした。
「有能に見えるようにしてください」
「見えるだけでいいのか」
「まずは面接を通らないと」
「人間は布一枚で中身まで誤魔化そうとする。嫌いだ」
鉄鷹は肩幅を測り、袖を容赦なく切った。赤い針山から針を抜くたび、琴葉が職場で飲み込んだ言葉が一本ずつ聞こえた。
それは私が直しました。
その締切では品質を保てません。
次は私に担当させてください。
「うるさい布だ」
「私、そんなこと言ってません」
「言わなかったから、裏地に溜まっている」
鉄鷹はジャケットの内側へ細い赤糸を走らせ、胸元に小さなポケットを作った。そこへ琴葉の職務経歴書を四つ折りにして入れる。
「面接官に見せるための服じゃない。お前が、自分のした仕事を落とさないための服だ」
「でも、似合いますか」
「似合うは逃げ道だ」
試着すると、鏡がないのに背筋が伸びた。袖口は手首にぴたりと合い、赤い糸が一針だけ見えている。
代金を払い、琴葉は扉へ向かった。
鉄鷹が後ろから、切り落とした古い袖を投げてよこす。
「それは?」
「今の会社で、小さくしていた分だ。退職届を包め」
琴葉は笑ってしまった。
「やっぱり、この服、似合ってますよね」
鉄鷹は丸眼鏡を外し、初めて正面から琴葉を見た。
「似合うな」
落ちかけた心臓が、赤い糸で引き戻される。
「服をお前に合わせたんじゃない。お前が服を従わせた。だから、似合うで終わらせるな」
翌朝、琴葉は赤い糸のある袖で、面接室の扉を押した。