鯵のなめろうを叩く
店主が包丁を研ぎ終え、砥石の水を捨てようとしたとき、若い客が入ってきた。閉店まで二分。客は息を整えながら言った。
「刺身、何か残ってますか」
「鯵なら。なめろうでいい?」
客がうなずくと、店主は包丁をもう一度手に取った。
まな板の上で、鯵と味噌と生姜が細かく叩かれる。とん、とん、とん、と一定だった音が、粘りが出るにつれて重くなる。青葱の匂いと魚の冷たい潮気、生姜の鋭い香りが、片づけられた店内に広がった。
客は小さな出版社の新人だった。今日、初めて出した企画書を編集長に返された。赤字は一行だけだった。
《誰が読むのか分からない》
そこから先を聞けず、自分の席へ戻った。企画書は二十ページある。資料も取材候補も揃えたのに、入口の一文で止められた。帰りの電車でファイルを削除しようとしたが、同期に見られるのが嫌で会社の端末を閉じ、そのまま店まで歩いた。席へ戻ってから一度も、企画書の表紙を開けなかった。
なめろうは小さな山に盛られ、青紫蘇の上へ置かれた。客が箸で持ち上げると、身が糸を引くようにつながった。
「叩けば叩くほど、まとまるんですね」
店主は包丁を洗いながら首を振った。
「叩きすぎると粘る」
それだけ言って、刃の水気を拭いた。
口へ運ぶと、味噌の甘さのあとに生姜が来た。鯵の身は形を失っているのに、噛めば小さな弾力が残っていた。客は企画書を思い出す。二十ページを守ろうとして、最初の一行へ何も置けなくなっていた。
スマートフォンのメモを開き、明日の予定に一つだけ書く。
《編集長に「誰へ届けたい企画なら読めますか」と聞く》
答えをもらっても、企画が通るとは限らない。二十ページを捨てることになるかもしれない。それでも、黙って削除するより、赤字の一行だけをもう一度叩いてみようと思った。
店主が店内の灯りを半分消した。最後のなめろうは冷たく、舌の上で味噌と魚の粒がほどけた。飲み込んだあと、生姜の辛さだけが遅れて喉を温めた。