斜線のない更新
藍住ソフトウェアの祖父江璃子は、顧客更新の一覧を作る仕事をしていた。
年度末の取締役会で、解約率が過去最低と報告された。とりわけ大手通信会社との三年更新に伴う一時ライセンス料七億五千万円が、業績を支えている。
「顧客の署名済み契約書です」
営業本部長が映したPDFには、更新条件の下に代表者の署名があった。
璃子は手元の紙を見た。彼女が顧客から受け取り、法務へ回した原本の控えである。更新を断る顧客へ何度も引き留めの電話をかけたため、斜線の角度まで覚えていた。最後の電話で担当者は「これ以上は困ります」と静かに言った。
「更新ではありません」
営業本部長の笑顔が消えた。
「何を言っている」
「この欄です」
契約書には二つの選択肢があった。
〈同条件で三年間更新する〉
〈契約満了をもって終了する〉
顧客は二つ目に斜線を引き、脇にイニシャルを書いていた。ところが取締役会用PDFでは、斜線だけが白く消され、署名は残されている。空欄になった選択肢を、営業部は更新同意として扱っていた。
「署名がある以上、契約書全体への同意だ」
「選択欄の指示が優先すると、第五条にあります」
顧客管理システムには、その電話の結果を璃子が〈更新拒否・理由は価格〉と入力していた。翌朝、記録だけが〈継続検討〉へ書き換えられていた。
「先方とは口頭で更新を確認した」
「では、なぜ先方のイニシャルを残したんですか」
璃子は画面を拡大した。消された斜線の端が、イニシャルの一画にわずかに食い込んでいる。白塗りした跡だった。
社長は営業本部長へ目を向けた。
「原本は?」
「電子化後、廃棄したはずです」
「ここにあります」
璃子は控えではなく、顧客が簡易書留で返送した原本を机へ置いた。廃棄指示を受けたが、文書規程に反するため保管庫へ戻していた。
監査人が斜線の上を指でなぞる。
「七億五千万円を外すと、売上成長率はマイナスです」
営業本部長が立ち上がった。
「たかが一本の線だ」
議長は承認書から手を離した。
「契約を終わらせる一本だ。決算承認も、ここで止める」