かぼすを絞る距離
転勤して三日目、小日向彬の郵便受けに、緑色の小さな実が四つ入っていた。
付箋には〈隣の緋沙です。実家のかぼす。酸っぱいので注意〉とある。
彬は礼を言おうと呼び鈴を押したが、使い方が分からないと正直に告げると、緋沙は台所へ豚肉を持って現れた。
「冷しゃぶにしましょう」
「寒いのに?」
「温かい豚しゃぶを冷やさず食べれば、温しゃぶです」
緋沙はこの町で生まれ育ち、親の介護を終えたあとも一人で実家近くに住んでいる。彬は長い単身赴任が始まったばかりで、家族との通話を終えるたび、部屋の広さが増すように感じていた。
鍋で豚肉を一枚ずつ泳がせ、色が変わったらざるへ上げる。水菜と玉葱を皿へ盛り、醤油、出汁、少しの砂糖へ、かぼすをたっぷり絞った。
緑の皮を削ると、鋭く清々しい香りが立った。
「絞りすぎでは」
「寂しい日は酸味がぼやけるから、多めでいいんです」
「そういうものですか」
「今、考えました」
湯気の残る豚肉へたれをかける。口に入れると、脂の甘さを酸味がきゅっと締め、あとから皮の香りが鼻へ抜けた。
彬は思わず背筋を伸ばした。
「目が覚める味ですね」
「眠りたい夜には困りますけど」
二人は家族の話をした。彬の息子は最近、電話で「別に」としか言わない。緋沙の母も晩年、返事は少なかったが、かぼすの季節だけは箱の数を細かく指示したという。
「言葉が少ない人は、食べ物を多く送るんですよ」
緋沙が言う。
彬は残った実を一つ、家族へ送る荷物に入れようと思った。たった一個では料理にならなくても、この部屋の匂いは伝わるかもしれない。
食後、二人で皿を洗い、残ったたれを小瓶へ分けた。
「次はそちらの土地のものを」
「名物、詳しくないんです」
「では、家でよく食べていたものを」
緋沙が帰ったあとも、部屋にはかぼすの香りが残った。彬は家族へ〈今夜、隣の人と夕飯を作った〉と写真を送る。
返事は息子からの〈肉うまそう〉だけだったが、その短さが、今夜はちょうどよく温かかった。