ただいまの改札
父の葬儀の帰り、久世原湊は形見の定期入れを開いた。古い紙片が一枚、透明ポケットの奥に挟まっている。
《家路駅の改札では、誰が待っていても「ただいま」と言ってはいけない》
父の字だった。
湊は子どもの頃、同じ注意を聞いた記憶がある。だが家路という駅は、沿線にも故郷にも存在しない。
夜の電車で眠り、目を覚ますと車内には誰もいなかった。表示は「次は家路」。扉が開くと、木造の小さな駅舎が見えた。
改札の向こうは、二十年前に住んでいた社宅の玄関だった。取り壊されたはずの建物。植木鉢の位置も、錆びた郵便受けも同じだった。
父が立っていた。
葬儀で着せた黒い背広ではなく、仕事帰りの作業服だった。手にコンビニ袋を下げ、昔のように少し顎を上げている。父は何も言わない。ただ、湊が口にする言葉を待っていた。改札脇の運賃表には金額がなく、「帰宅」「不帰」の二文字だけが並び、父の指は帰宅の方に触れていた。
紙片を握りしめても、喉が先に動いた。
「ただいま」
改札機が軽い音を立てた。父は一歩下がり、社宅の玄関を開けた。中から味噌汁の匂いがした。
湊は走った。改札を抜けるのではなく、来た電車へ戻った。扉が閉まる寸前、父が初めて口を動かした。
「お前の家は、そっちでいいのか」
次に目を開けると、現在のマンションのソファだった。定期入れも紙片もテーブルにある。夢ではないと思ったのは、部屋に味噌汁の匂いが残っていたからだ。
スマートスピーカーが起動した。
「お帰りなさい。自宅住所を更新しました」
スマホの地図で「自宅」を開くと、取り壊された社宅の位置に家路駅の記号があった。変更しようとしても、住所欄には「改札内」としか入力されない。
さらに、スマートロックの通知が届いた。
《自宅の玄関が解錠されました》
解錠した利用者名は「父」。時刻は、葬儀が終わった一時間後だった。
湊のいるマンションの玄関から、ビニール袋を床へ置く音がした。
スマートスピーカーが、父の声で言った。
「遅かったな。先に上がってるぞ」